さて、新型コロナの影響で宝塚関連もずいぶん中止になっている催しが多いようで。

特に東京で公演中の雪組さんは全会のお茶会が中止ということで…あと数えるほどしかお茶会がないだいきほに関しては、本当に残念なことです…


退団公演の前楽が中止となってしまった紅子も相当の不運でしたけど、こういうのは誰が悪いわけでもないですからねえ…(コロナは全面的に中国政府が悪いけどね)


セリ美もそろそろマスクの在庫が残り少なくなってきたので、洗濯してアイロンかけて数回使うという感じになってきてますし、とにかく生徒さんたちの健康と事態の早い収束を願っています。






さて、京都旅最終日の続きです。



大山崎山荘のお隣にある宝積寺(ほうしゃくじ)へ。


あ、そうそう。
大山崎山荘、コロナ対策だと思いますが、なんと当面臨時休館になってしまったようで。。。


そういえば最近セリ美のお気に入りのお店がどんどん閉店しちゃう呪いにかかっておりまして…そのせいだったら申し訳ない…


セリ美はラーメンの中では塩ラーメンがいちばん好きなんですが、セリ美宅の近所には美味しい塩ラーメンを出してくれるお店がありませんで、去年ようやく塩タンメンの美味しいお店を見つけたのに、閉店…


近所のイオンに入っている和菓子屋さん、味は普通だけど週末はいつも半額セールやってるので重宝していたんですけど、閉店…


愛知と言えばスガキヤなんですが、いちばん近所にあったスガキヤが閉店…


サンドイッチのSUBWAYも大好きなんですけど、いちばん近所にあったサブウェイも閉店…





宝塚には何もありませんよーに…!!!






…ここまで書いて下書きにしておいたら…
たった今、サパと壮麗帝のお茶会全会中止のお知らせが来ました……


う、う、う、うううううううううう


今回、初めてまかぜ茶に行こうと思ってたの……







セリ美の呪いがコロナを呼んだ、までは言いませんけど…

やっぱりこの呪いは強そうです……


生徒さんの健康が第一だけど、どうか公演自体が中止になりませんよーに…








さて、宝積寺。

ここは通称、宝寺。地元の方々は皆さん「たからでら」と呼んでいるようです。
なかなか縁起のいい名前ですけども、まさにここは金運に強いパワーを持ったスポットとなっています。


打ち出の小槌のモデルとなった小槌が宝積寺にあるそうで、金運アップのご祈祷を申し込むと、なにやら黄色い巾着を頂けるとな。中にはお守りと銀杏の実が入ってるんですって。


で、ご祈祷が終わったらそのまま後ろを振り向かずに門まで歩いて出て、自宅に戻ったらその巾着を開けて、部屋内に「氣」を充満させます。


そしてその巾着の中に通帳とかを入れて保管しておくと金運がアップするそうな!

なんだか面白いお作法ですよね~。振り返っちゃいけないとか、「千と千尋」みたい。





セリ美は基本的には「目に見えないものは信じない」という考えなので、神社仏閣に来てもあまり神頼みはせずにひたすら「ここに歴史上の人物で誰が来たか」ということのみに興味を示します。


なのでこういう祈祷とか厄払いとかもしたことないんですけど、「面白い文化」としてこの祈祷は体験してみても良かったかな~と思いました。
時間が無くてできなかったんですけども。





で、ここには何を見に来たかというと。



前回ご説明した、「山崎の戦い」にて「明智を討ったどーーーー!!!!!」となった秀吉さんが、その「ドヤァァァァァ!!!!!」という血走ったテンションのままにものすごい勢いでたった一夜にして建てた塔があるというので、それを見に来ました。



はい、それがこれ。






IMG_0454





このね、適当な感じの立て札がすごくいいよね。あんまり達筆じゃない感じの。

同じ京都内でも、有名なメジャー史跡よりもこういうローカル感がたまらなく好きなんです。



ほんとに一夜で建てたのかどうか怪しいものですけども、でも秀吉さんが「明智討ったどーーーーー!!!!!」という意味でここに建てたというのはきっとほんとだと思いますね。

数百年経過にしてはすいぶん綺麗に残ってました。





で、この適当な感じというのはこの宝積寺のスタイルなんでしょうかね。


その秀吉が腰掛けたと言われる岩がここに残っておりまして、「出世石」と呼ばれております。
まぁつまりは明智を討ってから怒涛の勢いでそのまま信長に代わる天下人として百姓から「太閤秀吉」とまでなったわけですから、世紀の大出世人ですよね。



その縁起のいい石が、これです。







IMG_0455





適当!!!!


特に柵とかもなく、もうほんとにその辺に転がったままになっているので、「え?これがまさか出世石じゃないよね…?」と思ったセリ美は、ちょうどここを通った社務所の人に「あのう…出世石って…これですか…?」って訊いちゃったよね。


そして「え、そうですよ?(看板あるじゃん)」と言われて、「あ…ありがとうございます…(;^ω^)」と言いましたが、あまりに普通に転がっているので、せっかくならここに腰掛ければ良かったものの、「ウソでしょ…?」という動揺が抑えきれず、ちょんちょんと遠慮がちに触ることしかできませんでした…



まぁね、ほんとにこれに秀吉さんが座ったかどうかなんておとぎ話みたいなもんですから定かではないですけど、数百年前からこの地にあったことはきっと確かだと思いますし、秀吉さんじゃなくても数百年前の武将や侍たちが座ったことでしょう。

そう思うと、歴史ロマンを感じがちなセリ美はとても興奮しました。




ここ宝積寺は金運の強い神社であることと、出世エキスパート・秀吉ゆかりのものがこうして綺麗に残っているということで、戦国時代をすごく身近に感じることができますし、なんだか縁起のいい寺社ですね。




途中ですれ違ったお坊さんも参拝者の皆さん全員に「こんにちは~」と挨拶をしていて、そこもなんだかいい感じでした。


神社仏閣って、感じ悪い神主さん・スタッフさんも結構多いですからね。



前に伊勢神宮に参った時に、参拝者がたくさん石段を降りてきてるのに、落ち葉を吹き飛ばす機械(ブロワーっていうんですかね)をまったく止めずにブオンブオン吹いていて、舞い上がった枯葉や土ぼこりが参拝者に直撃してました。


朝8時頃なのにおはようございますの挨拶も誰もしてなかったしな~

それ以来なんだか伊勢神宮が苦手になっちゃいましてね~…


セリ美が行ったタイミングが悪かっただけなんでしょうけど、それも含めて相性かな、と。




なので、神社仏閣ってすごく相性って大事だな~なんて思います。

この宝積寺さんのやる気のなさが嫌な人もいるでしょうしね。



セリ美は宝積寺さんはなんとなく相性良かったかな。




で、この宝積寺さんから天王山の山頂に向けての山道が出ています。





IMG_0456





1キロくらいなので、簡単なトレッキングって感じでしょうかね。

でも『猿・イノシシ注意!!遭遇したら目を合わさずにゆっくり逃げてください』という手書きの注意書きがなんだか怖かった…

山登りしてる人は誰もいなかったように見えたしね…


この山で激しい合戦が行われて、たくさんの兵が亡くなったのだろうなと思うと余計に…ね…




でも、この天王山は明智が討たれた場所ということで、いま大河ドラマで明智やってる兼ね合いもあって天王山の観光を盛り上げようとしてるのかなあ。

こんなイベントをやっていてちょっと笑いました。







IMG_0457





なんかすごくオリジナリティーある企画で、まるでセリ美茶みたいでこういう手作り感も大好きです!


しかも、イマドキの若い人たちが「町おこししようぜ!」という感じでQRコードとかLINE@とかARとか作っちゃったりするわけじゃなく、いかにも町内のおじいおばあが考えてそうな感じの素朴な内容。


同じ山に50回登るって…なかなかですよねえ~


セリ美が関西在住ならぜひトライしてみたい企画ですが、さすがに50回は企画中には達成できないだろうな~

だって毎月2回登っても1年で24回なわけですよ。
つまり、月4回ペースで登らないと1年で50回にはならないわけで。
月4っていったら毎週ですよ?!?!

なんで50回に設定しちゃったかな~
たくさん来てほしい気持ちはわかるけど、20回くらいにしておかないと誰も挑戦してくれないような気がしますけどねえ。


その辺も「…50回くらいにしとく??」「何あげる?名入れグラスとか?ww」って適当に決めちゃった感じがして好きです。



この企画、一体いつまでやってくれるのでしょうかねえ?








でも、こんなアットホームな宝積寺ですが、歴史的に見たらなかなかのドラマを含んでるんです。




秀吉さんが「どりゃああああああ!!!」と塔を建てた(1582年)あと、約280年後の1864年。時は幕末ですよ。
「徳川幕府を倒せ!」「外国を追い返せ!」「尊皇攘夷!」の時代に、ここで自害した17人の兵士たちがおりました。











歴史小話





はい、またこのコーナーです。

幕末ってもうほとんど政治って感じで話もすごく入り組んでますし、今と時代が近いから割と記録も多く残っていて妄想をかきたてにくいのでセリ美はちょっと苦手な時代なんですが、でもやっぱり史実を知ってこの地を訪れるとこみ上げるものがあります。




まずは、幕末のざっくりした情勢から説明してみましょうかね。


でもいかんせん苦手な時代なので、もし間違ったこと書いてたら優しく教えてね?ね?


たまに鬼の首取ったみたいに「違います!間違った情報書かないでください!!」ってすごい剣幕で怒ってくる人がいるので怖くて……泣


ほ、ほら間違いは誰にでもあるじゃない…?ね?ね?



あ、でも解釈の違いを「私はこう思うな~」とか、「こんな裏話もあるんですよ」というご意見やタレコミは大募集ですのでね!
どしどしお寄せ下さいませ!






秀吉さんがこの宝積寺でこの塔を建てて出世石に腰掛けてから、一気に天下人としての地位を築いてゆきます。


でもそんな秀吉さんも後継ぎ問題やら朝鮮出兵やらで晩年は血迷い始め、その隙を狙って家康さんが台頭してきて、関ヶ原の戦い(1600年)で勝利して徳川幕府を開きますね。



そこから大政奉還(1867年)までずーーーーーーーーっと徳川幕府が日本を動かし続けてるんですからすごいですよね~。

しかも平民にとっては割と平和に。


歌舞伎とかセクシーな文化とか、江戸時代にいろ~~~んな文化が生まれたってことは、それだけ平民にとってそれを楽しむだけの余裕があったってことですからね。

芸術大好きなセリ美にとっては、徳川幕府ありがとう!と思っています。




でも、その信頼と実績の徳川幕府にも、ついに終わりが見えてきます。



理由としては…やっぱり天皇制っていう独特な仕組みが古代からずっと続いてることがひとつありますよね。


いつから天皇が政治を天皇家以外の人間にも任せることになったかっていうのはもう大化の改新とかの話になっちゃうのでね。あかねさすみたいな話になっちゃうのでね。
おおあまーーーーーーー!!!!!みたいな話になっちゃうのでね。



とにかく日本ていうのは天皇が国のいちばん偉い人で、その偉い人から「国作りは任せるよ」と政治を幕府に委任している、という形態が鎌倉幕府から続いてるというわけでね。
いい国作ろう、ってね。

あれ?いまは1192年説じゃないんだっけ?最新の説を知らなくてすんません。



要は、2つの「偉い組織」があるわけです。


現代日本みたいに、「天皇は象徴、政治は総理大臣」っていう体制になる前はその2つの関係はまぁ小競り合いもありながらなんとなく付かず離れずうまいことやってきてたんですけど、例のアレですね、ペリーさんが来ちゃったあたりから意見が割れてくるわけです。



黒くてめっちゃでっかい船で「ペリー、ジパング欲シイ」って迫ってきちゃったわけですよ。
こんなに美しくて豊かな国ですもんね、そりゃ諸外国は欲しいよね。



その際に幕府があんまりうまい対応ができなくて、いよいよ市民の間に「幕府…さすがにもうそろそろダメじゃね?」という空気が高まっていきます。


そんで、幕府がダメなら王政復古でしょうよ!!!ということで、『尊皇攘夷』という言葉が大流行して、「強い日本に立て直そう!!!」という血気盛んな皆さんがいろんな思想をもって激しい時代へと突入します。



尊皇攘夷とは、天【皇】を【尊】んで、外国人を排斥することです。
まぁ天皇万歳&鎖国ってやつかな。


他にも、「公武合体派(天皇家と幕府を合体させちゃおうぜ!)」とか、「佐幕派(やっぱ幕府でしょ!)」とか、いろ~~んな思想をそれそれの藩が、それぞれの武士や僧侶たち、文化人たちが持ち始めます。


もっと細かく分類すれば、「基本は尊皇攘夷だけど、穏便に慎重に進めようぜ!」という人とか、「いやいやもっと斬新な案があるんだよ!」とか、本当にいろ~~んな考えの人がいたと思います。



でも基本的にはみんなそれぞれ所属している藩の思想に従うわけです。
まぁ今で言う政党ですよね。
所属している政党の方向性に従って動いていくわけです。


それがだんだん賛同できなくなると、「脱藩」ということになり、重い処分を受けたり亡命成功して新天地で活躍する人もいたりします。



例えば、セリ美が薩摩藩の武家に生まれたとしたら、薩摩藩が「うちは尊皇攘夷でやっていきまーす」と言うならセリ美も尊皇攘夷として働きを見せていかねばなりません。


でも、「いやいやいや!ペリーさんめっちゃでかい船持ってるって言うし、追い返せるわけないでしょ!」っていう考えを持ち始めちゃったらもう脱藩するしかないわけですね。

もし脱藩に失敗して捕まったら、死刑とかかなり重い刑罰が待っていました。




で、この時代に頭のいい人をたくさん抱えていた藩と言えば、長州藩(山口あたり)、土佐藩(高知あたり)、薩摩藩(鹿児島あたり)、会津藩(福島・新潟あたり)あたりになるのかなあ。

水戸藩(茨城あたり)も中国の文献とかたくさんの国学を学んで尊皇攘夷の考えを流布させ始めた藩なので、なかなか賢い人たちが揃っていたのかなと思いますけども。




で、明治維新に繋がる大きな政治の動きを先導したのは主に長州、土佐、薩摩、会津になるのかな。



ちなみに長州藩出身者は…毛利元就(戦国時代)、吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文など
土佐藩…坂本龍馬、中岡慎太郎、板垣退助、武市半平太
薩摩藩…西郷隆盛、大久保利通



今の日本を作ったすごいメンバーです!
地元の皆さんは誇り高いでしょうねえ。




で、この中の長州藩というのはガチガチの尊皇攘夷派です。ガッチガチの。
それを先導したのが、吉田松陰ですね。


「日本を変えるぞおおおおおお!!!!!」という熱い熱い情熱によって「天皇を盛り立てろ!外国人追い返せ!」という思想を、松下村塾(しょうかそんじゅく)という政治結社みたいな組織を作って徹底的に塾生に叩き込んでいきます。



まぁ悪く言えば洗脳かな。


でも、それだけ「この人の考えてること、言ってることはすごい!!!!」と知的好奇心旺盛な男子たちが目を輝かせて次々魅入られていったわけですから、それだけの膨大な知識量やプレゼン能力があったのでしょうな~。




でも、悪いことにこれが結構過激な思想だったんですね。

「強い日本を作るのには、尊皇攘夷に決まっとる!それに賛同できない者は日本にとって邪魔だから殺しても構わん!」という。


今で言うテロリストみたいな思想に近いですよね。



そのせいで、過激思想をもった塾生たちが世に放たれ、殺し殺されの激しい時代に突入していくわけですから。



それでこういう尊皇攘夷とか、「とにかく幕府を潰せ!」という考えの人を粛清するために作られたのがだいもんをはじめとする新選組ですね。
おもさげながんす~~の。



で、情勢は尊皇攘夷に傾いたり、佐幕派に傾いたり、お互いに暗殺しまくって数年の間にシーソーゲームみたいな感じになりますが、長州藩は一貫して尊皇攘夷です。





で、事が大きく動いたのが池田屋事件です。




大きな手柄が欲しい新撰組が、尊皇攘夷派が集まっていると聞いた池田屋に襲撃してたくさんの尊皇攘夷武士たちをいっぺんに暗殺した事件ですね。

この中に長州藩の武士もいて、殺されちゃったわけです。



それで完全に火が付いた長州藩は猛烈に怒って京都に向かって出兵します(蛤御門の変)(はまぐりごもんのへん)(もしくは「禁門の変(きんもんのへん))。



京都市中や御所で激しい戦いを繰り広げますが(京都市内めちゃめちゃ焼けたらしい)、薩摩藩・会津藩もこの時は長州藩の敵となっていたので、頭数が全然敵いません。



そしてこの長州藩チームの中に、長州藩と同じ思想を持って久留米藩(福岡の久留米)から脱藩してきた真木保臣(まきやすおみ)さんという久留米藩チームが参戦していました。


でもあまりに劣勢で、


「もう完全にヤバイ!全滅させられてしまう!!!!」


と思った真木さんたちは、天王山へ退却します。

その時の人数は200人ほど。



京都市内から天王山まで歩いたら結構あるんですけどね~だって電車で30分とかの距離ですからねえ。
それでいて天王山のトレッキングコースを更に登るんですから。
すごい体力ですよね、昔の武士って。




で、リーダーを務めていた真木さんは、この兵たちに「一旦長州に逃げろ!!そしてまた機会をうかがえ!」と言って逃がしますが、戦というのは、退却するときに「殿(しんがり)」というチームが必要です。

要はいちばん最後尾を務めるチームですね。



敵に背中を狙われやすい位置ですから、強いチームじゃないと務まらないお役目です。
でもそれだけに、「しんがりを務めるのは名誉なこと」という意味合いもあります。


それをリーダーである真木さんチーム17人が買って出ます。




でも逃がさんとばかりに追ってくる敵からは逃げられず、この宝積寺で17人は自害しました。


そのお墓があります。





IMG_0458






30分かかる…!!!!!ということで、今回は行かれず…
この手描きの矢印がまたいいですね。
定規使うとかそういう細かいことは気にしない感じがね。


でも現在お墓がある天王山山頂には明治維新後に移されたそうで、本来はこの宝積寺内ですからね。



宝積寺内にある墓標は見てきました!





jyuunana041







なんだか今回の京都旅は自害の歴史ばっかりになっちゃいましたけど…


いつの世も、日本の未来を想って、生き延びた同志たちに想いを託して自害していった猛者たちの激情に心動かされます。


でも、いま世界各地で行われている激しいテロも、根底には「いい国を作りたい」という想いがあるゆえ、っていうのは同じですからねえ…


「吉田松陰がテロリスト集団を作った」なんて言われてしまうのも、そういうことですよね。

何が正義か、何が罪かっていうのはとっても難しいです。





今のコロナ騒動でも日本の対応の遅さが指摘されていますが、こうやって命を捧げて日本を作ってくれた皆さんのおかげでこんなに平和な先進国になったわけで、でもその平和が長かったおかげでこのバイオハザードみたいな緊急事態でものんびりしちゃうような平和ボケ国になっちゃったわけで。


そりゃ平和が望ましいけど、平和が生み出す弊害ってのもやっぱりありますからねえ。難しいですね。


この幕末の志士たちが今のバイオハザードに対応するなら、どんな対策を採っているのでしょうね。






でも一方で、国作りのためにこんなに過酷な人生を送られて…という畏敬の気持ちもありつつ、自分の命を差し出したり他人の命を頂戴して国の情勢を動かしている!という強烈な自己実現には繋がりますから、えもいわれぬ高揚感があっただろうなあというのも想像できます。

だから、不幸な人生だったというのはちょっと違うように想像しますね。


自分なりに為すべきことして、自分の手で、自分の判断で、生涯を終えることができるというのもまたひとつの幸せのように思います。




そんな真木さんの辞世の句はこちら。




大山の 峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂



大和魂をここに置いていくっていう、やはり愛国心に溢れた辞世の句になっていますね。


これを死の間際に考えるだけ余裕があるって、昔の人はすごいですよねえ…
それだけいつも死が身近にあったから、いよいよここまでという間際にもパニックにならないのでしょうね。


先日お話ししたセリ美歴史小話、秀次さんの近親者たちの大量粛清の際も、若いお嬢さんたちもみんな辞世の句を詠んでますものねえ。





もしセリ美がこの幕末時代に一人の藩士として生きていたなら…どの思想を選択するかなあ。

もちろん外国人なんて入れたくないけど、ディフェンスだけじゃいずれ侵略されてしまうのも確実で。


やっぱりどこの国にも植民地化されずにここまで独立国でやってこれたのは、明治維新の皆さんの決断が正しかったんだろうなと思いますね。





今回の歴史小話は割とチーム戦のお話だったので個人の人生を掘り下げることができずにキャスティングできませんでしたねえ。残念。






まぁそんな感じの京都極貧旅でした。



こういう、ひとつひとつの歴史を紐解いてから現地に行って遺物を見てそのまま空を見上げると、あの頃を生きた皆さんと同じ場所に立って同じ空や木々を見てるんだな~なんて感傷的にもなったりして。


まだまだ追いきれないほどの歴史遺物が京都にはたくさんあるので、また機会を見て行ってきたいと思いま~す。










そういえばセリ美レポ、まだ完了してないんだった…