ここ数日、歯の調子がすこぶる悪いセリ美ですどうも。



「歯はすごく大事!!!!」ともっと教えてくれる人がいてくれたら良かったな~
今さらながら、適当にしてきた自分に悔恨の念しかないです。


小3くらいのときに友達と遊んでいて顔面からころび、前歯を2本折りまして…

2本とも差し歯となりましたが、まだ永久歯になりたての歯で折ってしまったので歯がしっかりしないまま差し歯にすると土台が脆いようで、数年前に行った歯医者さんで

「この差し歯はいつか取れちゃうよ。その時はもうブリッジかインプラントしか無いね~」

と言われ、インプラントなんて恐ろしくて高級なものをこの貧乏人が選択できるはずもなく、かといってブリッジは両脇の健康な歯も削ってしまうことになるので、とにかく今の差し歯が取れないように煎餅も小さく割って食べる悲しい人生を送っております。



でもついにその差し歯がなんとなくグラついてきてましてね…

そして他の奥歯にかぶせてある銀歯周辺もじわじわ痛み出し…

更に老化による歯茎の痩せで食べ物がめっちゃ挟まるようになり、出血が増え…



「もう限界や!大っ嫌いな歯医者行くしかない!」と
ついに決心したのに歯医者さんはいまお盆休みっていう、ね…

痛いよう。でも歯医者怖いよう。



まだよく調べてないですが、「スマイルデンチャー」という新しい入れ歯の技術があるとかで、ブリッジとインプラント以外に何かいい治療ないかな~と思案中です。







さて、怒涛の8連泊SAPA合宿から戻ってまいりました。

もともとは「梅芸で1席おきなんて絶対チケット無いだろ!」と思っていたので合宿の予定はなかったんですけど、蓋開けてみたら意外とチケットあったみたいで、合計4枚確保できまして。(壮麗帝はゼロ…)

そんでこの時期なのでいま宿がすごく安くてですね、いちいち愛知と梅田を行ったり来たりするより泊まっちゃったほうが全然安いということに気づきまして、思い切って8連泊を決めた次第でございました。


こういう時にフリーライターだとパソコンひとつでどこでも仕事ができるので有難いですね。
SAPA観た日にそのまま仕事で徹夜したりとかしてだいぶキツかったですけども。



梅田には全然いいホステルがないのでいつも京都のホステルに泊まるセリ美。
今回泊まったホステルは新規でしたがなかなか素晴らしいホスピタリティでした。

まぁそのレポはまた後半に。







さて、SAPAオンライン配信も終わって多くのヅカファンがSAPAの全貌を知ったわけですが、予想通りかなり皆さんザワついてますね。


これまでのくーみん作品を映像や劇場で観てきて、セリ美は皆さんと同じように並々ならぬ期待をもってSAPAに臨んだわけですが、初見は非常に戸惑いました。

もちろん、くーみんの圧倒的な世界観を見せつけられて「相変わらずくーみんの脳内にはとんでもないビッグバンが起きているわね…」と開いた口が塞がらない状態にはなったんですが、一方で、これまで観てきたウエクミ作品とは明らかに違う方向性に戸惑いました。


デビュー作からいきなり天才悲劇作家として多くのヅカファンから崇められているくーみんですが、悲劇と言えども最後には何とも言えない人間の逞しさや美しさがくっきり残るのがくーみん作品の真骨頂とセリ美は評価しておりました。




でもSAPAはそれとはちょっと違ったかな…




というのも、
これまでのくーみん作品は、その時代設定が全部過去のものだったせいかなあ?(BADDY除く)


古事記の時代とか19世紀ヨーロッパの作曲家群雄割拠時代とか、江戸時代中期とか、架空の古代砂漠王国とか、帝政ロシアとか、あまりに自分とかけ離れすぎていて、観劇している自分は「おとぎ話」としてすごく客観的に物語を観ていたわけです。

その「おとぎ話」の中にも現代に通じる価値観が巧みに埋め込まれていて、「人間ってそういうところあるよね…」と共感を覚え、人間という生き物に対する愛着が湧いてくる仕組みになっていて。




でもSAPAは、地球の行く末のお話であり、「人類はこのままだとこんな未来が待ってるかもしれないよ!」とすごくリアルなことを語りかけてくる設定でした。

公演プログラムの挨拶の中でも、くーみんは「個人の情報がすべて入ったスマホなんていう気味の悪いものが生命維持装置になる時代が来ることを危惧したことがモチーフ」と語っていますしね。



中でも特に、観客の心に鋭利な刃物としてぐさぐさ容赦なく刺さってくるのが2幕の戦争の描写ですね。

単純な「武器や腕力での殺し合い」だけではなく、その二次災害としての犠牲者となる女性や子供たちの悲しい扱いまでも遠慮なく直接的に描かれます。

それを目にして経験して、人類に絶望しか抱けなくなったブコビッチさん(ゆーちゃんさん&穂稀せりちゃん)がやけくそとばかりに天才的な発明を繰り出すわけですが。


つまりは、SAPAという作品の中で分かりやすい「悪の象徴」としてゆーちゃんさんと穂稀せりちゃんが登場するわけですね。
で、それに対する「善の象徴」として、まかぜと星月さんの存在があるわけです。


多くの観客はヒーローであり善の象徴であるまかぜ&星月親子に希望を託すのでしょうけど、テーマがあまりにもリアルすぎて、セリ美が共感するのは完全にゆーちゃんさんとほまちゃんの言い分でした。

まかぜとゆーちゃんさんが対峙する場面でのまかぜの主張には、1ミリも共感できる部分が無かったです。

「人間は違うからこそ理解しようと歩み寄れる。その違いも憎しみも含めて愛し合えばいい」みたいな主張には「なにを綺麗ごと言ってんだ、苦労知らずが!」という感じ。



過去の苦しい記憶を失っているまかぜはそうやって綺麗ごとを並べるけど、記憶を取り戻した瞬間に、直前までそう言っていた自分を受け入れられずに激しく慟哭します。

それに対してゆーちゃんさんは「これでも君は憎しみを抱えたまま認め合えばいいと言い切れるのか?!」と詰問し、まかぜは最終的に「自分も許すからあなたも許してほしい」という結論に至るわけですが、実際にそんなことが言える人間はこの世に一人もいないでしょう。

例えば通り魔に自分の家族を殺された遺族が、裁判も起こさずに「許します」と言うでしょうか?という話で。
無差別殺人ではなく、怨恨など犯人なりに殺す理由があったとしても、「あなたの気持ちを理解するように努めます」なんていって泣き寝入りするでしょうか?という話で。



最終的には善の象徴であるまかぜが生きて冒険の旅に出て、マッドサイエンティストとして悪の象徴であったゆーちゃんさんが死にますが、この「人間はどう生きるべきか」という結論の出ない論争の中で、人間って実際はそんな風に善と悪、きれいにくっきり分けることはできません。


例えば剣の強さと立場を利用して悪行を重ねていたせいで仲間に暗殺されてしまった新撰組の初代局長・芹澤鴨だって、酒と女と金にだらしなくて町人や商人にすこぶる評判が悪い面もあれば、懐が深くて細かいことで下々の人たちを責めなかったというエピソードも伝わっていて。

例えばノーベル平和賞ももらってる聖母の象徴であるマザーテレサも、実際の行動の中には眉をひそめてしまうような悪行もたくさん伝えられていて。(詳しくは「マザー・テレサに対する批判」でwikiると出てきます)


それなのに、世間的に見たら「芹澤鴨は悪人、マザーテレサは善人」というのが一般的になってます。


だから、セリ美からSAPAを見ると「ゆーちゃんさんは真実を教えてくれる善人、まかぜは理想しか語らない苦労知らずの悪人」
に見えるわけです。
くーみん的には「どちらが善でも悪でもない」のかもしれませんが、一般的に見てSAPAの構図は「まかぜがヒーロー、ゆーちゃんさんがラスボス」に見えますよね。




あらゆる人間の中には産まれた時に既に善も悪も両方あって、性善説なんてありえないと思っています。「子供は残酷だ」って言いますからね。誰も教えてないのに「いじめ」を自然発生的に行います。

善悪の割合や悪を制御する理性の強さや自覚力がそれぞれ違うだけだと思っています。



例えば、セリ美と同じように家庭に恵まれなかった人は世界中にたくさんいますが、セリ美はこうして悪行に手を染めることなく、自分を傷つけることもなく、「自分にとっての幸せの道はたぶんこっち」「自分を良いほうに導いてくれる人はこの人」「この人と深く関わるとあまりいいことがない」と正しい判断ができています。


でも、まったく同じ環境で育ったセリ美の兄はまるで違う方向に歩を進めましたし、中には犯罪者になってしまう人やミレナ(まどかちゃん)のように自分を傷つける方向に進んでしまう人もたくさんいます。むしろそういう人のほうが圧倒的に多いと思われます。

極悪犯や家族殺しの犯人の中で、いたって普通の温かい家庭で育った人は少ないですもんね。



セリ美の母にとって兄は「親想いの最高の息子」として善人中の善人ですし、兄の奥さんにとっても「とても親想いの優しい旦那さん」ですし、きっと兄を取り巻く人たちの評価も「優しい人」ですが、セリ美にとっては「妹の不幸を見殺しにした上に母と一緒になってセリ美を傷つけた共謀犯」なわけです。


もっと言えば、娘を殺す勢いで悪行三昧をしてきたセリ美の母だって、自分の会社の社員たちからすると「憧れの女社長」でしょうし、母親としての顔を知らない人にしてみたら「女手一つで子供2人とも大学まで出させた苦労人の美人社長」だと思います。


詳しくは知りませんが、松田聖子さんみたいな感じかなあ。
歌手・アイドルとしては日本中から愛される憧れの女性だけど、沙也加ちゃんからしてみたらとてもじゃないけど母親とは呼べない、みたいな。

沙也加ちゃんの結婚式に出なかったということを知って、なんとなくセリ美はすべてを察知したことを覚えています。

沙也加ちゃんが芸能界に入ったばかりの頃に親子で仕事をしている時期がありましたけど、「ああ、あの時はいい娘キャンペーン中だったんだな」といま思い返します。
セリ美にもそのキャンペーン時期がありましたから。割とつい最近まで。
親の才能がない人に育てられた人って、親に好いてもらおうと必死なんですよね。悲しいほど健気にあの手この手を使って親が喜びそうなことを買って出ます。
グレることも許されなかった状況だと余計にね。



トランプ大統領だって差別主義の独裁者だと批判する人も多くいますが、中国・朝鮮への対応やエプスタイン島という暗部中の暗部に斬り込んだ英雄とみる人も多くいます。(調べる人は要注意です。エグいので)


数年前から叩かれまくっていて今もコロナ対応で総叩きに遭っている安倍ちゃんだって、拉致被害者の皆さんから見れば救世主だと思います。(総理は小泉さんだったけど具体的に拉致問題に動いたのはサポートしていた安倍ちゃん)




つまり、文明も社会も発達した現代において、「善人か悪人か」なんて、それを評価する人によって全然バラバラということ。



「善と悪」だけではなく、「幸と不幸」も同じです。


ある人は、「親の死に目に会えなくてとても悲しかった」と嘆く。
でもそれを見た人は「死が悲しいと思えるほどの親に育ててもらえたなんて、すごく幸せで羨ましい」と思う。

ある人は、「身内が交通事故で突然亡くなってしまってとても悲しい」と嘆く。
でもそれを見た人は「私の身内は難病にかかって何年も苦しみ抜いた末に亡くなったから、苦しまないで逝けたなんて幸せだと思う」と羨む。

ある人は、「三浦春馬さんはイケメンで才能もあってお金もあって幸せそうで勝ち組で羨ましい」と言う。
でもご本人は生きることを諦めざるを得ないほど苦しかった。


割と多くの人が経験しているらしいことで言えば、「自分にとっては良き夫ではないけど、子供たちにとっては良き父親」というパターンも多いみたいですしね。

立場が変われば善も悪も幸も不幸もすぐに一転するわけです。




それほど、モノや文明があふれた現代において善と悪の境目はなくなっているし、幸せと不幸の判断も難しくなっています。


だから、ゆーちゃんさんが最後ミレナに楽にしてもらって独裁政権が終わるのがめでたしでもなく、まかぜが人類の半分を引き連れて新天地を求めて冒険に出るのがめでたしでもないので、終演後にセリ美の心に残るのはいつも「絶望の確認」でした。




人間の醜さを体感してきたゆーちゃんさんが結局どうしたか、というと、あんな悲しい戦争など絶対に起きないような仕組みを必死に考え出したけどやっぱり戦争は起きてしまい、何が正解か分からなくなった末の「死」です。

ゆーちゃんさん含む人類すべての意思を取り込んだミレナが「やっと父さんの気持ちが分かった」として選んだ結論が「殺して楽にしてあげよう」です。「人間は憎くて殺すだけじゃない」「すべては終わるのよ」という台詞がそういう意味ですよね。

「愛ゆえに殺す」という行動はこの作品以外にもよく見られる結末ですけども。

「この苦しみから解放してあげよう」だったらお得意の記憶の抹消でも良かったはずなのに、「殺してあげよう」となったのはどうしてでしょうねえ?




結局、人間によって受けた悲しみや憎しみは「死んで忘れるしかない」ということなのか…という絶望がセリ美の心を占めました。

セリ美が抱えるこの苦しみも結局は死ぬその日まで終わらない。そういうことです。

起きてる時間はいろいろと忙しかったり楽しい時間もいっぱいあるけど、イエレナみたいに、寝てても悪夢でうなされるしねえ…この現象は母が死んでも続くでしょうからね。



ゆーちゃんさんに両親を殺されたまかぜは一体どうやって憎しみを克服したのか、その辺があまりはっきり描かれていなかったので余計にセリ美は路頭に迷いました。
ゆーちゃんさんが死んだから「もう終わったこと」「次に進もう」にしたのかしら?

「人類のためだった」と分かっても、愛する両親を殺されて、可憐な婚約者の人間性もあんなに凶暴に変えられて、そんな簡単じゃないと思うんですけどねえ…




もともとは、いま前を通りかかっただけのみなし子を見かねて「悲しい記憶など忘れさせてあげよう」と優しさゆえに記憶を消してあげたブコビッチさん。
そして優しさゆえに自分の娘と偽って生き延びる道を与えてあげたブコビッチさん。


トラウマを消してあげるという行為は決して悪行ではありません。
このまま戦場に一人置いていったらきっと死んでしまうから助けてあげる行為も悪行のわけがありません。
そんな優しさから始まった行動はいつしかレジスタンスチームに「悪の存在」として恨まれ、せっかく命を助けたみなし子も自殺願望を抱くようになっていく。

まかぜからも「あんたの愛は人間への復讐みたいだ」とか言われちゃってねえ…可哀想に。



やっぱり善も悪も表裏一体というわけですね。



まかぜの最後の台詞が「希望」でしたが、セリ美にとっては一体どこに希望を見出せばいいのか全然わからず、ひたすら落ち込んだ気分でしゅし消毒をして劇場を出る日々でした。





でも、人類の希望と絶望、善と悪なんてありふれたモチーフをくーみんが描きたいはずがない、と必死で作品のテーマを毎日毎日考え続けました。


科学と思想(宗教)のぶつかり合いなんて、科学の解明で真実を言ったガリレオを「神への冒涜」として終身刑にしたローマ教皇という史実が多くの作品のモチーフになっているし、希望と絶望なんていうのもなんだか陳腐。


公演プログラムを必死に読み込んだり、くーみんが京大で講義をした際のレジュメもSAPAと通ずるものがすごくあるので読み返してみたけど…


以前からずっと宇宙に対する想像や、未来に対する警鐘をくーみんは一貫して叫んでいて、セリ美もそれには共感するものが多かったり、くーみんの思想の豊かさ・鋭さに舌を巻いておりましたが、このSAPAを観てからだとガラッと受け取り方が変わってきました。




例えば京大でのレジュメを読むと、こうあります。


【物語の役割とは】

・共感の拡張
・痛みの肯定
・悪の視覚化


昨今の人気エンタメはジャンクフードみたいな中毒性があるだけで、表層的な楽しさしか得られない、
深いテーマ性を感じられないものが多い、とくーみんは軽めに批判しています。

じゃあ小説や映画やドラマ、舞台というエンタメにおいて、物語って人間にとってどんな役割を持つべきなのか?ということで、この3つを挙げています。


共感の拡張というのは、「他者との違いを認める」という意味です。共感できる範囲を広げるためにエンタメに触れよう!ということ。

「多様性」という言葉をよく聞くようになりましたが、枕詞として「あくまで自分と同カテゴリーの中で」という言葉がつくもので、「理解しがたいけど、理解するように努めよう」という意味で使っていないのでは?とウエクミ氏。

物語の登場人物を通して、「こういう人もいるのか」と知ることができるのが物語の役割のひとつだよ、ということです。


例えば、宝塚でも不倫モノなんてたくさんあるじゃないですか。

今の国民相互監視システムみたいな世の中だと「不倫モノは不謹慎です!」って検閲に引っかかるようになるのか?!という演出家らしい危惧を感じていらっしゃるのだと思います。

「不倫、ダメ!ゼッタイ!」と分かっていても、「なぜそうしてしまったのか」と心を寄せられるようになりましょうよ、というのが「共感の拡張」ということかな。




で、「痛みの肯定」ですが、今は「〇〇ハラスメント」という言葉が非常に多方面で使われていて、できるだけ痛みや苦労を排除しようというのがスタンダードな生き方になっているけど、昔は歯医者で麻酔なんてなくて死ぬ思いで治療をしたとか、玄関に鍵なんてかけない防犯意識の低い社会で妙な押し売りが家の中まで入ってきたり、すぐに近所の子供を怒鳴り散らすカミナリ親父とか、殴る蹴る坊主にさせるなんて当たり前の暴力教師とか、そこら中に「痛み」や「恐怖」がころがっていて、子供っていうのはその中で逞しく生き抜いたものだ、と。

それらが人間の成長において必要なものであることを肯定しようという意味です。


まぁ確かに現代の若者っていうのは、「親がめっちゃ怖い」とか「怖い先生がいる」という感覚が無いので、「怖い思いや嫌な思いをしなくて済むにはどうしたらいいのか」と考える力や火事場の馬鹿力みたいなものが無いということをセリ美が行ってる美容院の店長さんもお悩みとして吐露してました。





で、最後の「悪の視覚化」というのは、その暴力教師とかどうしようもない悪人を物語に登場させて、「自分にもこういうところがあるかもしれない」という自分の中にも確実に存在する「悪」をしっかり認識して解放して、膿を出すことが魂の洗濯になるという意味ですね。

もちろん「悪」はいけないものだけど、それがあるからこそ善の存在も引き立つもので、そこから人間らしい「情」が生まれていく、とくーみんはレジュメで何度も解説しています。




これら3項目が「演出家の役目とは」を考えたくーみんの答えのようです。






この講義を聴いた当時はセリ美も「くーみんの頭はどうなってんだ…」とひれ伏したものですが、SAPAを境にしてずいぶんと捉え方が変わりました。



SAPAを観て、「善と悪」「幸と不幸」「希望と絶望」「科学と思想」はすべて表裏一体であり、どちらが無くてもいけなくて、悪があるから善がある、不幸があるから幸せを感じられる、絶望があるから希望が抱ける、科学が発展するからこそ人の心をもっと見つめていく必要がある、ということをくーみんは言っているのかしら、と感じました。

一見、肯定したい気持ちになるんですが、結局セリ美は肯定できませんでした。


やっぱり不幸は無いほうがいい。
やっぱり悲しみなんて無いほうがいいんですよ。
「もう…生きるあてもない…」なんてルドルフみたいな悲しい目をする必要なんてないんですよ。

不幸や絶望を体感したセリ美は、単純にそう思いました。


確かに、この不幸な境遇だからこそ得たものもたくさんあったと思います。
きっと自分の思いをこうして文章にしようとも思わなかったし、つまりはこうしてブロガーになることもなかっただろうし、読者のみなさんとも出会うことはなかったでしょう。

でも、あまりに多くのものを失いました。



大好きな家族や友人を事故や事件で失った人たちが、「自分には必要な悲しみだった」なんて思ってるはずがないと思うんですよね。
そんな悲しみ、知らないほうがいいに決まってます。
セリ美のような悲しい思いなんて誰もしないほうがいいに決まってる。


だから、くーみんが言う「必要悪」とか「痛みの肯定」というのは、「痛すぎるからもう殺してくれ!」という本気の絶望を味わったことのない人特有の羨望なんじゃないかなあ?と思ってしまいました。
中2病で妙に暗いものや闇っぽい世界観に惹かれちゃう、みたいな。


くーみんの生育環境をよく知りもしないで言うのは違うかもしれませんが、本当の地獄を知っていたらそういう発想にはならないんじゃないかな~、なんて。





人間の本性がいかに醜いか充分すぎるほど知り尽くしているセリ美からすると、殺戮や凌辱とかを改めて舞台という生の空間で見せつけられなくても分かってるよ!!!と目を逸らしたい気持ちのほうが強かったです。


ツイッターで目にした限りだとやっぱり大絶賛の声が圧倒的に多く、あまりセリ美のように頭を抱えている様子の人は見かけませんねえ。


でも、「観た後に何も残らない、刹那的に快楽を得るだけのアトラクションのような作品」に意義を見出していないくーみんからすると、こうして観劇後に何日も何日もず~~~~っと考えさせてしまうことこそが、「してやったり」なのかもしれないですね。




あとは、単純に「???」と思ったことが何点かあったのもちょっと消化不良。



まず、「みんな」の意識が集まった「ミンナ」を(ダジャレかい!)まどかちゃんの中に全部落とし込んで「私が私じゃなくなる~~!!!!いやああああああ!!!」とか言ってた割に、今までのまどかちゃんと何が違うのかよくわからなかったこと。不良がいい子になっただけ?
幸せそうにテキパキ仕事してたけど、自分を助けてくれた義父殺しだよねえ…呵責の念とかないのだろうか…


ポルンカ15周年の時にイエレナが32歳、ということはまかぜと婚約した時は17歳ということになるけど、未来の地球人なのにそんなに若い年齢で婚約するとかあるのだろうか?


ルイマキセは何回記憶を漂白されても結局暴力的な思想は変わらなかったから、記憶が消えても思想癖とか性格は変わらないということかな?と思いきや、まかぜは助手業にも一生懸命でレジスタンスとしても正義感溢れる人間性だったのに、ポルンカで兵士となってからはずいぶんとやる気のない無気力な性格に変わっていたなあ…情報を得るためとはいえすぐにイエレナに手出しちゃうし…そこまでして情報が欲しい!という感じには見えなかったけどなあ…

しかも、「俺たちが寝たのは初めてじゃない」とかいう刺激的な台詞をまかぜに言わせてましたけど、17歳のイエレナが既にそんなに当時のまかぜとベッドインしていたのかしら…


SAPAの住人たちは「へその緒」を付けてなかったけど、どうやって生きてるの?
キュリー夫人のお店のお酒とか食料はどこから調達してるの?
SAPAではどうやってみんな稼いでるの?あそこで流通してる貨幣は増えも減りもしないんだから、稼ぎようが無くない?


ラストシーンでなんでまっぷーさんがいたの?


「SAPAのおへそ」はキュリー夫人が作ったガセネタというなら、おへそに行こうとするまっぷーさん親子をあんなに必死に止めるくらいなら、「あれは嘘なんです」ってなんですぐ言わなかった?


自分も親を殺された悲しみを知ってるイエレナが、なんであんなに簡単に投降兵士を撃ち殺しちゃったの?恨みの対象はゆーちゃんさんじゃないの?


キキちゃんはどんな思想があってレジスタンスのメンバーに入ったの?
「ぴかぴかした正義」を持つようになったのはきっかけがあったの?もともとの性格?


もえこちゃんが単なる野心でまどかちゃんと結婚しようとしてたことくらい「ミンナ」にアクセスできるゆーちゃんさんは知ってただろうに、なんで結婚を推進したの?


「昔のようにまた実験をしよう」とゆーちゃんさんに言われてまどかちゃんはなんで素直にソファに座ったの?座ってから「いやああああああ!!!!」って抵抗してもねえ…


「SAPA」ってどういう意味?なんでSAPAにしたの?役名にも何か意味があるの?







疑問点、結構ありましたね。


これらのモヤモヤもあって、セリ美にとってFLYING SAPAはウエクミ作品で初めて「さすがです!!!」と言いづらい作品となりました。


全体的になんとなく啓蒙感が強かったのもちょっとセリ美の趣向に合わなかったかなあ。

シェイクスピアとかも含む演劇作家にありがちな傾向だけど、演劇に政治的啓蒙とか人類への問題提起とかの役割を持たせるのってあんまり好きじゃないんですよね。


演劇って個々の人生を豊かにするものだと思うので、演劇に「人間らしい生き方」とか「人類の進むべき方向」とかを考えさせる役割をセリ美は求めてなくて。


くーみんの提起する「このままでいいのか人類よ!」みたいな演説っぽい意味合いが強かったことがこれまでのウエクミ作品と決定的に違う点だったように思います。


あくまでセリ美個人の感想ですけど、正塚先生は別箱作品のほうが向いているように、サイトーくんはショーじゃなくてお芝居のほうが向いているように、くーみんには現実離れしてる作品のほうが向いてるな、と感じたSAPA最終感想でした。

あんまり現代とリンクしてない内容のほうが逆に「これは人間の真理かもしれないな」と思わせる手腕が発揮される先生なのかもな、と。




「へその緒」はつまりスマホのことだし、地球が居住不可能になるまで戦争をした地球人というのもおおいにあり得る設定だし、「悪の芽を摘み取るために常に見張られている」のはスマホで指紋を自動採取されてマイナンバーで一括管理されてることだし、コロナの自粛警察も大活躍でしたけど(セリ美も被害に遭いました)SNSから始まった相互監視システムもそのひとつですよね。

あくまでSAPAの設定は未来だけど、現代と通じる条件が多すぎる。



柴田先生作「白昼の稲妻」の劇中劇でシェイクスピアの「オセロー」を上演することで時の権力者を追放してしまおう!という場面がありましたけど、「SAPAという作品を通じて現代の問題を提起しよう!」という構図になっていたように思います。


芸術というカテゴリーである演劇を、風刺とか問題提起に使うのってセリ美はどうも好きじゃなくって。




源頼朝が朝廷政治を覆して武家政治が始まったように、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたように、それに代わって徳川幕府の長い長い統治が始まったように、その長い統治をついにひっくり返す明治維新が起きたように、攘夷論が終わってついに開国したり、インターネット革命が起きて画面を通して仕事をしたり会ったこともない他人を自殺に追い込んだり。

このように日本だけで見ても「大革命」は何度も起きてますし、その当時はその革命が果たして正解なのか地獄への入り口なのか、ノアの箱舟に乗るしかない下々の我々は知る由もありません。(ノア先生のノアってそういう意味なのかなあ)(「一人残らずみんなで到達しよう」って言ってたしなあ)


だから、くーみんがここで問題提起してもしなくても人類は権力者の決定で勝手に流れて(流されて)いくし、悪人が減るわけでも増えるわけでもなく、謎の疫病が大流行する宿命が変わるわけでもなく、親に虐げられる子供が減るわけでもなく、職場にはびこるトラブルメーカーが自主退職してくれるわけでもなく、今日もそれぞれが粛々と現実を受け止めるしかないのであります。

そんな価値観を持っている時点で、セリ美はもういろいろなことに絶望してる証拠かな~なんて客観的に受け止めておりますが。



だから、演劇には啓蒙の役割なんて必要ないと思っています。

もちろん、ライターとしてセリ美は「無知は恥なり」と思っていますので、いま日本や世界で起きている事態や真実や情報は自分で掴みに行くべきと思っておりますが、それを演劇で知る必要はない。

もっと芸術的で哲学的で叙情的な存在であってほしいという気持ちです。





その辺でくーみんとの思想の違いを感じました。






とはいえ、相変わらずの見事な演出手法にはあっぱれでした。

母体である「SAPAのおへそ」と、全人類を繋ぐデバイスの名前が「へその緒」であるという命名も素敵です。

自分はどこか異質だと言う三宅先生に楽曲提供を依頼したところとか、その異質で未来的な音楽の中に古い音楽であるタンゴを盛り込んでくるところとか、あくまでいつも静寂であるポルンカと、地球の記憶を回顧するときの喧騒。

未来的と懐古的、静寂と喧騒。
これらの対比は印象的でした。



登場人物を「希望チーム」と「絶望チーム」に分類してみると、



【希望チーム】
まかぜ
星月パパ
キキちゃん
まっぷーさん

【絶望チーム】
まどかちゃん
ブコビッチ
夢白ちゃん
まっぷーさんの子(歩けるのに歩く気が無い)



となるわけですが、まかまども、キキ夢白も、ブコビッチ星月(研究所でのコンビ)も、まっぷ親子も、希望&絶望の組み合わせになっていますねえ。

ゆーちゃんさんは星月パパのことが好きだったと言っていますし、結局、絶望は希望に憧れるんですよね。

セリ美だってそうです。まさにここもゆーちゃんさんと同じで、根拠もなく希望に満ち溢れている人やポジティブな人を見ると、とても眩しく見えると同時に、「絶望を知ってしまった私はそっち側にはもう行かれない」ことを突き付けられます。


この辺の希望と絶望の対比も見事だったなあと思います。



あとは、最後におまけ程度でつけてくれたフィナーレナンバーもどきの総踊り、意外にもまどかちゃんがいちばん巧かったように見えました。

あの振り付けは絶対に一生懸命踊っちゃいけない系のやつですが、いつだって一生懸命踊ってるタカラジェンヌにしてみたら抜き加減が難しいのだと思います。

気だるい感じの見せ方がまどかちゃんは非常に上手でした。







そして個人評はまた改めて書きたいなと思っているのですが、先にMVPの発表です!!!!




FLYING SAPAにおけるMVPは……………






























穂稀せりちゃんで~~~す!!!!!



いやね、以前から「この子はうまいなああああ」と思ってはいたんです。



まだ98期生ということもあるのか、本公演ではそんなに大きな役にはついてなくて、いつも「もったいないなあ」と思っていたので、「さすがやで、くーみん…」と思いました。

なぜブコビッチさんがあのような考えを持つようになったのかという重要な役でものすごい難しかったと思いますが、お見事でした。


りんきらさんもそうですが、セリ美は抑えた演技をする人が好きなので、ほまちゃんは静かながらに人類への憎しみと悲しみを背中に重たく背負っている様子が「巧いな~この子」と感心してしまいました。

大きく動いて大きな声を出さないと一番後ろの客席まで伝わらない舞台芝居はどうしてもみんな大芝居になりがちですが(市村正親さんとかいい例よね)、それらに頼らずに声色とオーラで的確に役を伝えてくる技術は本当にお見事です。


アナスタシアでも大きな役についてくれるといいなあ。



ほまちゃん、音楽系の有名校出身なんですねえ。
ということは歌手要員で入団したはずなんですが(ハッスルメイツでも活躍してくれてましたね)、まさかの芝居巧者でもあったという、ね。

りんきらまっぷーコンビがまかぜと添い遂げるんじゃないかという懸念が強いので、今後の宙組を支える有難い人材です。息子のこともよろしくねえええええ









さて、次回は個人評を少しと、京都放浪記を少し。

そしてツイッターでも少し予告しましたが、宝塚歌劇団のコロナ対策の神対応についてのインタビュー記事を予定しています。


サパ合宿で溜めに溜めた仕事をこなしつつ、なんとか頑張って書きたいと思います。


絵も描きたいよおおおおおおお歯が痛いよおおおおおおお