先週ははいからさんを通らせてからの、ミズさまご出演舞台「アルジャーノンに花束を」の3連発観劇、合計5連泊合宿を終えて帰ってまいりました。
このブログをお読みの読者さまたちはほとんどが現役宝塚ファンだと思うので、基本的にはミズさまの舞台レポはあまり需要が無いと判断し、積極的には書いておりません。
が、今回はあまりに壮大なテーマの作品であったゆえに人生観を揺るがすほどの感想を抱き、さらにこのタイミングで偶然にもセリ美を襲った出来事から自分に向けての決意・エールを書き記しておこうと思ったので、時間の許す限り書いてみたいと思います。
まずは、「アルジャーノンに花束を」のあらすじから簡単にご説明しましょうね。
1900年代中盤に出版された大ヒット小説なので、読んだことのある方も多いと思いますし、ほとんど小説を読まないセリ美もたまたまこの作品は読んだことがあったので、内容は知っておりました。
ざっくり言うと、先天的な脳の機能障害でIQが68しかない(6歳児くらい)(成人の一般的なIQは90~110)チャーリィ・ゴードンという32歳の男性が、人類初となる脳の手術を受けて、みるみるうちにIQが上昇し、ついにはIQ185の天才になってしまったけど、脳はそれをキープできず、IQの上昇速度と同じ速さで後退をはじめ、結局天才になれたのは束の間だけ。すぐまた元通りのIQに低下してしまい、むしろ当初よりも脳は異常を示して、ついには…というお話です。
今は「発達障がい」という言葉がようやく流通するようになり、人間は「健常者」と「障がい者」の2種類に分けられるような単純な生き物ではなく、その2者の間は仕切りではなくグラデーションのようになっているということが今は一般的に周知されてきていますね。
そして、その障がいの種類にも本当にいろいろあって、昔なら「怠け者」とか「変人」と思われていた性格が、実は本人の努力でどうにかなるようなものではなく、先天的な脳の仕組みによるものである、ということが解明されてきていますね。
この「アルジャーノン~」が出版された1900年代中盤なんて、発達障がいなんて言葉などあるはずもなく、理解などされるはずもなく、チャーリィの母親自身もそれと同じで、「この子は勉強を一生懸命やらせればみんなと同じになれる」と信じて、チャーリィにとても厳しくあたります。
でも、6歳児くらいの知能しか無い人間に、数学を理解しろとか、空気を読めと言ったって努力でどうにかなるわけがない。
しかしチャーリィの母親は「自分の産んだ子供がそんなはずはない」とその事実を受け止められず、心を狂わせていきます。
チャーリィにはノーマという妹(健常者)がいますが、いつも「チャーリィが、チャーリィが」と兄のことに夢中になって自分に見向きもしてくれない両親にノーマも次第に心の歪みが生じ、「自分が愛されないのは兄の存在のせいだ」と、チャーリィを憎むようになります。
幼い子が悪意なく様々なことに疑問や好奇心を抱くように、チャーリィも妹に対して純粋な興味を持って見たり接したりしますが、やはりそれは普通の子供とは違う接し方なので、そこにも母親は嫌悪感を抱くようになります。
このままでは健常者である妹の人生までぶち壊されてしまうと思った両親は、ついにはチャーリィを追い出してしまいます。
障がい者用施設に入れるつもりでいたチャーリィの両親ですが、それを見かねたチャーリィの叔父が、自分の親友が経営しているパン屋さんに住み込みで働かせてもらえるよう取り計らいます。
パン屋の主人は可哀想なチャーリィを保護し、パン屋のスタッフとみんなでチャーリィの面倒を見ながら「チャーリィはバカだなあ」と笑い合いながら過ごしていましたが、その中のスタッフの一人から「チャーリィみたいな、体は大人なのに読み書きができない人に勉強を教えてくれる施設がある」と聞いたチャーリィは、その施設を訪ねていきます。
そこで出会うのが、ミズさま演じるアリスです。
アリスはチャーリィを快く受け入れ、毎日少しずつ読み書きを教えますが、やっぱりIQ68では記憶力に限界があり、教えてもらったこともすぐに忘れてしまい、チャーリィはなかなか賢くなれません。
「ぼくわ、かしこくなりたい」
この台詞がチャーリィのいちばんの願いとして台詞や歌の歌詞に何度も使われます。
賢くなればみんなの役に立って、お母さんにも、みんなにも、もっと愛してもらえる。そういう理由でチャーリィはこの言葉を何度も言い続けます。
でも、いくら勉強しても賢くなれない。
「かしこくなりたい。ぼくわ、かしこくなりたい!」
その気持ちがとても強いチャーリィを見て、アリスは人間のIQを高める手術の臨床実験の第一号としてチャーリィが適任なのではないかと、研究チームにチャーリィを推薦します。
実際に人間で実験をする前にラットでの実験が既に開始されていて、IQを高めるその手術を受けて経過観察をされているアルジャーノンというネズミがいる。
今のところは順調にIQを伸ばし、難しい迷路も簡単に解ける「天才ねずみ」になっていた。
自分もそんな風に変身できるんだ!と夢いっぱいで手術を受けることを決意したチャーリィ。
そして予想通り、今まで分からなかった問題がみるみるうちに分かるようになっていきます。
驚くべきスピードでIQが上昇していったチャーリィは、大学教授なみの専門書を読みふけり、20か国語を操り、まさに「天才」になります。
しかし、今までわからなかったことが分かるようになったということは、計算問題や難しい単語が理解できるようになったというだけではなく、周囲の人間が自分をどのように見ていたのか、どのように扱っていたのか、家族が自分に何を言ったのか、何をしたのか、ということも理解し、思い出し、見えてきてしまいます。
母親が自分にしていた虐待、妹からの憎しみ、パン屋の仲間からの嘲笑。
6歳児の知能しかなかったときはそれらを何も理解できずにいた。
母親が自分を捨てたから自分はパン屋にいたということ、妹が障がい者である自分のことを憎んでいたこと、パン屋のみんなは自分を馬鹿にしていたから笑っていたこと。
すべてを理解してしまいます。そして深く深く傷つきます。
さらに、6歳児知能だった頃には研究者チームの面々を「ぼくの頭を良くしてくれる天才の人たち」と思っていたけど、今となっては彼らが自分以下の知識しか持っていないことを知り、その知能の低さに驚き、自分の中で周囲の人たちを見下すような感情が生まれていきます。
周囲の人たちにとっても、「チャーリィは自分よりすべてが劣る奴」と安心しきって、庇護欲を満たす愛玩動物のような存在だったのに、今や自分よりも遥かに高い位置に行ってしまった天才チャーリィに自然と恐れを抱くようになり、パン屋を追い出されてしまいます。
「俺らを見下して、馬鹿にした目で見やがって!」
と、パン屋の仲間に睨まれて吐き捨てられてしまったチャーリィ。
チャーリィに母性にも似た感情をもって親身に勉強を教えてくれていたアリスでさえも、そんな感情を持ち始めます。
そしてそんな感情を抱いてしまう自分自身に、アリスも非常に戸惑い、自分に幻滅します。
賢くなった自分で家族に会って、今度こそ温かく迎え入れてもらいたい、と正体を明かさずに父のもとを訪れるチャーリィですが、15歳の時に自分を捨てた父は全く気付いてくれませんでした。
2人で暮らしているという母と妹のもとにも訪れ、妹は兄だとすぐに気付いてくれましたが、精神を深く病んで施設に入るべき状態の母を一緒に看病してもらいたい、私を一人にしないで、と泣きつかれます。
17年前に自分を「こんな兄は施設に入れてしまえ」と言った妹が、「母を施設に入れるなんて可哀想でできない。私を助けて」と今度は助けを乞う。
「かしこくなったらみんながぼくを愛してくれる」と信じて手術を受けたのに、必要以上の知能を得た自分が見たものは、あまりに身勝手に態度を変える人間の姿だった。
そしてまた自分もみんなと同じように、みんなに対する態度を変えてしまった。
術後すぐには知能の上昇を実感できずにイラつき、自分と同じ手術を受けて「天才ネズミ」となっているアルジャーノンのことを最初は嫌いだったのに、「君はアルジャーノンの知能をとっくに追い越しているよ」と教えられた途端にアルジャーノンに対して情が湧いてきてしまうという描写がありましたが、まさに「自分が優位に立った途端に相手に好意を抱けるようになる」という人間のサガが表現されていて、見事でした。
思い描いていた未来とはまったく異なってしまった現実に加え、知能だけは急スピードで上昇する一方で、人間としての情緒面ではまだ思春期くらいの経験しか得ていないせいで、頭脳と精神はアンバランスになり、情緒は不安定になる。
そのうちにアルジャーノンに異変が見え始め、餌を食べなくなったり、壁に身体をぶつけたり、異常行動・自己破壊行動が見られるようになり、さらには、迷路も解けなくなってしまう。
自分より先に手術を受けているアルジャーノンは、近い将来の自分の姿。
それを分かっているチャーリィは、残された時間を使って自分で自分の観察・研究を必死に進めますが、残酷にもどんどん知能の後退は進み、自分が書いた論文でさえも読めなくなっていく日々に焦り、恐怖を抱き、心身ともに衰弱していく。
そしてついに、アルジャーノンが死んでしまう。
その頃にはチャーリィもすっかり6歳児知能の頃の自分に戻っていたけど、かろうじて残っている記憶を頼りに、「自分を障がい者施設に入れてほしい」という願いを残します。
そして、「ついでがあったら、裏庭のアルジャーノンのお墓に花を供えてほしい」と最後に残し、施設に収容されていく。
このとき、「ぼくがダメだったから、またバカに戻っちゃった。またかしこくなりたいなあ。とても楽しかった気がするから」とアリスに言うんですが、賢くなっていた間のチャーリィは一度も笑顔を見せることはなく、苦悩しかなかったはずなのに、6歳児知能のチャーリィの記憶の中では「楽しかった思い出」にすり替わっていて、手術前のように穢れの無い笑顔をアリスに見せます。
その清らかな笑顔を見てアリスは嗚咽を必死に抑えて、泣き笑いでチャーリィを見送り、研究所のメンバーと共に花束を持って、舞台に置く。
というところで、幕です。
施設に行ったチャーリィがどうなったのかは明確な説明がありませんでしたが、アルジャーノンと同じように、間もなく息を引き取ったんだろうな、と分かる演出でした。
近年は科学の発達により生み出されたクローン動物なるものが存在するようですが、科学によって生命を創造したり、DNAや細胞をいじったりすることが倫理的にどうなのか、という「神への冒涜」的な問題提起ももちろん大きなテーマとしては掲げられているとは思うのですが、無神論者のセリ美が感じたテーマは、「人間の弱さと愚かさはIQに関係なく平等である」でした。
人間の弱さと愚かさはIQの優劣に無関係であり、誰もが同じだけの弱さと愚かさを持っている、というのが主題なのかな、と自分なりに結論付けました。
結局、チャーリィは賢くなっても幸せにはなれず、愛してももらえなかった。
むしろ、何もわからなかった頃のほうが多幸感があった。
チャーリィは「ぼくわ、かしこくなりたい」という言葉で表現していたけど、本当の願いは「愛されたい」だったのだろうと思います。
子供にとって絶対の存在である母親から殴られながら「賢くなれ、賢くなれ」と洗脳されていたせいで、「かしこくなればお母さんに愛してもらえるんだ」と、まるで「芸をしたら餌をもらえる」とインプットされている動物のように信じ込んでいた。
でも、本当の願いは「お母さん、僕を愛して」というただひとつの願いだったんだと思います。
まぁこの辺の「母親に愛されなかった子供」というのはまさにセリ美にも突き刺さってくる問題なのでいろいろと思うことはありましたが、とりあえずそれはさておき。
人間はみんな弱くて愚かな生き物。自分も含めて。
これがいちばんドスーーーーーンと重たくのしかかってきました。
だからどんな隣人でもキリストのように愛しましょう、っていうのではないです。
というのは、この観劇のとき、たまたまセリ美の隣に座っていらしたマダムが、たぶん「多動性障がい」ってやつの持ち主だったっぽいんです。ご本人に自覚があるのかどうかは分かりませんが。
観劇中、ずーーーーーーーっと指をもじもじ動かし続け、空中に何か文字を書いたり、グーにしたりパーにしたり、人さし指同士をぐるぐる回したり、バッグからハンカチを取り出したと思ったらそれを畳んだり広げたり、またバッグにしまったり。
もう気になっちゃって気になっちゃって。
宝塚でもいるじゃないですか。背もたれを何度も蹴ってきたり、飴や飲み物を何度もバッグから取り出してはしまって、ガサガサやってる人。
ああいう人も多分じっと座ることが耐えられないんだと思うんですね。悪意はなくても。
そういう人を、「これは多動性障がいっていう、きっと悪意のないものだから温かく見守らなきゃ」とは分かっていても、こっちも1分1秒にお金払って大好きな贔屓を観に来てるわけで、やっぱりイラついてしまいます。
セリ美も何度もそのマダムに「それ、気が散るのでやめてもらえますか?」と言いそうになりました。
今日のこのミズさまを拝むためにつらい仕事もコツコツ頑張ってやってきて、なけなしのお金でチケット買ってるわけですから。
「きっと悪気があってやってるわけじゃない、本人も止めたいけど止められないのかもしれない」と分かってるのにこうしてイライラしてしまう自分は、仕事が覚えられないチャーリィにイラついたりするのと同じで、セリ美もやっぱりパン屋のスタッフと同じなわけです。
ということは、もし自分の周囲に「自分はこの人より優位に立ってる」(ステイタスとか、お金持ち具合とか、外見とか)と余裕な気持ちで接していた人がいたとして、もしその人がある日突然自分よりお金持ちになっていたり、自分より美人になってちやほやされていたり、自分よりいい大学に入ったりいい会社に入ったりしたら、それまでと同じ気持ちで接することができるだろうか?と思うわけです。
セリ美は小学生の時、親に言われて進学塾に通っていました。
その塾でセリ美と同じ小学校の女の子は一人しかいなかったので、自動的にその子と仲良くなり、一緒に塾に行ったり帰ったりしていました。
その子はセリ美よりも学力が下のクラスにいたんですが、ある時の試験を境にして、セリ美と同じクラスに上がってきて、ついにはセリ美よりも上のクラスに上がっていきました。
まさに、「ウサギと亀」状態。
こうしていまライターの仕事をしているように、生まれつき日本語に対して勘が鋭かったセリ美はろくに勉強もせずに国語の点数だけでそこそこのランクをキープしていたわけですが、そんな怠慢人間は努力している人になんて余裕で追い越されます。
心のどこかで「この子より私は頭がいい」と余裕ぶっこいて木陰で居眠りしていたセリ美が目を覚ますと、亀さんは自分を追い抜いていた。
そこで「ぃやっっっべええええ!!!」とようやく気付いてなんとかその子のいるクラスまで自分を引き上げたんですが、この場合はお互いにライバルとしての気持ちを持つことで切磋琢磨できるというメリットのある関係ですが、人間ってのはこうして自分よりも下だと思っていた人間に追い抜かれると、とてもじゃないけど「おめでと~良かったね~」なんて平常心ではいられません。
だから、観劇中にアルカイックスマイルで隣の多動性の人を温かく見守れない自分がいても、自分を責めなくていい。
弱くて愚かなのは、みんな同じなんだから。
IQが高くても低くても、みんなそれは同じこと。
という、自分や他人に対する赦しの気持ちが生まれたということと、「できる範囲でいいから、弱くて愚かな自分や隣人に優しくできる自分でいることを心掛けながら生きていこう」と改めて思えたこと。
さらに、「棲み分けてもいい」ということ。
自分が居心地のいい場所で、居心地のいい相手とだけ接してもいい。
無理に気の合わない相手や、自分を傷つけてくる人と接する必要はない。
そういう人たちを遠ざけることは別に冷酷で無慈悲なことじゃない。
チャーリィに対して全員が何かしらの「罪」な行為を行っている、という作品を観て、自分も含めた人間への「赦し」を知る、という素晴らしい作品でした。
罪を知って、赦しを知る。
なんか哲学的でいいですよね。
人間の弱さと愚かさ、というテーマに関しては、SAPAも同じだったと思うんです。
でもSAPAはなぜか観劇後に絶望しか残らなかった。
くーみんとオギーの違いは、何なんだろう。
いまだにそれは分からないです。
演出家としてのキャリアの違いなのかなあ。
もしくは、根本に持ってるくーみんの怒りとオギーの赦し?
くーみんの動とオギーの静?
この辺はもう少し、考えてみたいと思います。
宝塚時代からオギーと何度もタッグを組んできた斉藤先生の素晴らしい音楽や、主演のチャーリィとミズさま以外の演者さんたちにあえて何役も演じさせる手腕という、舞台芸術としてのレベルの高さも見事でした。
そんな素晴らしい作品に出合えて、またひとつ人としての新しい気付きを教えてもらったところに、タイミングいいんだか悪いんだか、攻撃的な声を浴びせられた出来事が続きました。
こうして自分の意見や作品を世界に向けて発信する立場にある限り、誰かの攻撃の手から完全に逃れることは不可能で、芸能人にしろスポーツ選手にしろ、矢面に立つということは、誰かのストレスのはけ口に利用されてしまうということがしばしばあるわけです。
一応、そういう覚悟のもとにこのブログも開始しました。でもセリ美も弱い人間ですから、なかなかドーンと構えていられるほどの心の強さはなくてね。
今の時代のように、面と向かって言わずとも画面の文字越しに文句を言いやすい状況だと、やっぱり気軽に攻撃しやすいわけですよね。
そういうことで木村花ちゃんとかも追い込まれていってしまったわけですが。
目の前に緩衝材のプチプチがあったら、人はつい手に取ってプチプチしてしまうように、イライラしたところにちょうど叩きやすそうなものがあったらやっぱり手を出してしまうんでしょうね。
このような公な立場だと、そのプチプチにされてしまいやすいわけで。
そこにも、チャーリィに罪な行為を行った人々と同じ感情の動きがある。
自分の良心や理性だけでは、その罪の行為を抑制できないのが人間なんだな、と思ったわけです。
もしくは、ストレスのはけ口に利用しているという自覚は全くなく、むしろ自分は正しいことをしていると思い込んでいるパターンも多いわけです。
それが自粛警察の心理ですよね。
そういう無自覚のプチプチ行為に対して、プチプチされちゃった自分はどんな感情をもって対峙すればいいのか。
ブログを始めてからそれはもうずっとセリ美の中での問題提起だったわけです。
でも、この「アルジャーノンに花束を」を観て、人間は自分も含めてみんな愚かで弱い生き物なんだから、プチプチされちゃったことに対して頑張って許す必要もないし、「何も悪いことしてない私をどうしてプチプチするんですか?」って相手の弱さを掘り下げようと対話をする必要もない。
私は私が進みたい道を見定めて、そこに向かって、好きな人たちと笑い合いながら助け合いながら楽しく突き進んでいけばいい。
なんだかやけに理不尽なこともたくさんあったけど、できるだけそれを自分の糧にして、私は私の人生を充実させるべく、好きな人たちにできるだけ優しくして、無意識に傷つけないように留意して、『いろいろつらいこともあるけど、自分の夢に向かって闘い抜いてる!』と胸を張って言える人生を送ればいい。
アルジャーノンを観て得た価値観と、偶然にそのあと続いたプチプチ攻撃を経て、そんな逞しさをひとつ手に入れました。
ジェンヌさんたちも、各業界の第一線で頑張ってる人たちも、きっといろいろあるけど頑張ってる。
もうすぐ配信ライブを行うと話題の嵐の皆さんも、ただみんなの笑顔のためと自分の人生のために頑張ってるだけなのに、いろいろとアンチやらマスコミからひどいこと言われて、大野さんなんてそれにすっかり疲れちゃったくらいいろいろと精神を消耗したんだろうけど、でも「この日までは精一杯がんばります」って誠意ある区切りを決めて、きっと今日も配信ライブの準備や他のお仕事やらで頑張っていらっしゃるのでしょう。
いやセリ美はそこまで嵐ファンではないですけども。「第一線で頑張ってる人」の代表として挙げてみました。
ただ人生を頑張ってるだけの人を、プチプチ目的で馬鹿にしたり攻撃したりする人は、絶対自分の人生を頑張ってない人に決まってる。
セリ美は誰にも恥じることないくらい自分の人生を頑張ってます、闘ってますって胸を張って言えるから、プチプチされちゃったことなんてどうでもいい。
セリ美はそんなステージには立ってないので、心だけは嵐さんと同じ、第一線で闘ってるつもりなので、明日も仕事がんばろうっと!!
アルジャーノンを観たあとの私はいまそんな気持ちです。
今でさえすごい忙しい仕事量なのになぜかまた新しい仕事増えちゃってどうなっちゃうのって感じですけど、やっぱり「あなたに書いてほしい」って言われたら応えてみたい。
ひとつの大きな会社がセリ美の書いたもので成長していく助けの一つになるなら、今日もヒィヒィ言って夜中のポテト食べながら頑張るのです!!
それじゃあいつまで経ってもミズさまのようなパーフェクトボディーにはなれないケド…
いやそもそも脚の長さが…
ということで、今日も適度にダラダラしつつ、宙組の初日を待ちわびながら適度に頑張りましょう!
息子が娘としてフィナーレも出るってほんと…?!
きっとすごく可愛いのでしょうねえ…


このブログをお読みの読者さまたちはほとんどが現役宝塚ファンだと思うので、基本的にはミズさまの舞台レポはあまり需要が無いと判断し、積極的には書いておりません。
が、今回はあまりに壮大なテーマの作品であったゆえに人生観を揺るがすほどの感想を抱き、さらにこのタイミングで偶然にもセリ美を襲った出来事から自分に向けての決意・エールを書き記しておこうと思ったので、時間の許す限り書いてみたいと思います。
まずは、「アルジャーノンに花束を」のあらすじから簡単にご説明しましょうね。
1900年代中盤に出版された大ヒット小説なので、読んだことのある方も多いと思いますし、ほとんど小説を読まないセリ美もたまたまこの作品は読んだことがあったので、内容は知っておりました。
ざっくり言うと、先天的な脳の機能障害でIQが68しかない(6歳児くらい)(成人の一般的なIQは90~110)チャーリィ・ゴードンという32歳の男性が、人類初となる脳の手術を受けて、みるみるうちにIQが上昇し、ついにはIQ185の天才になってしまったけど、脳はそれをキープできず、IQの上昇速度と同じ速さで後退をはじめ、結局天才になれたのは束の間だけ。すぐまた元通りのIQに低下してしまい、むしろ当初よりも脳は異常を示して、ついには…というお話です。
今は「発達障がい」という言葉がようやく流通するようになり、人間は「健常者」と「障がい者」の2種類に分けられるような単純な生き物ではなく、その2者の間は仕切りではなくグラデーションのようになっているということが今は一般的に周知されてきていますね。
そして、その障がいの種類にも本当にいろいろあって、昔なら「怠け者」とか「変人」と思われていた性格が、実は本人の努力でどうにかなるようなものではなく、先天的な脳の仕組みによるものである、ということが解明されてきていますね。
この「アルジャーノン~」が出版された1900年代中盤なんて、発達障がいなんて言葉などあるはずもなく、理解などされるはずもなく、チャーリィの母親自身もそれと同じで、「この子は勉強を一生懸命やらせればみんなと同じになれる」と信じて、チャーリィにとても厳しくあたります。
でも、6歳児くらいの知能しか無い人間に、数学を理解しろとか、空気を読めと言ったって努力でどうにかなるわけがない。
しかしチャーリィの母親は「自分の産んだ子供がそんなはずはない」とその事実を受け止められず、心を狂わせていきます。
チャーリィにはノーマという妹(健常者)がいますが、いつも「チャーリィが、チャーリィが」と兄のことに夢中になって自分に見向きもしてくれない両親にノーマも次第に心の歪みが生じ、「自分が愛されないのは兄の存在のせいだ」と、チャーリィを憎むようになります。
幼い子が悪意なく様々なことに疑問や好奇心を抱くように、チャーリィも妹に対して純粋な興味を持って見たり接したりしますが、やはりそれは普通の子供とは違う接し方なので、そこにも母親は嫌悪感を抱くようになります。
このままでは健常者である妹の人生までぶち壊されてしまうと思った両親は、ついにはチャーリィを追い出してしまいます。
障がい者用施設に入れるつもりでいたチャーリィの両親ですが、それを見かねたチャーリィの叔父が、自分の親友が経営しているパン屋さんに住み込みで働かせてもらえるよう取り計らいます。
パン屋の主人は可哀想なチャーリィを保護し、パン屋のスタッフとみんなでチャーリィの面倒を見ながら「チャーリィはバカだなあ」と笑い合いながら過ごしていましたが、その中のスタッフの一人から「チャーリィみたいな、体は大人なのに読み書きができない人に勉強を教えてくれる施設がある」と聞いたチャーリィは、その施設を訪ねていきます。
そこで出会うのが、ミズさま演じるアリスです。
アリスはチャーリィを快く受け入れ、毎日少しずつ読み書きを教えますが、やっぱりIQ68では記憶力に限界があり、教えてもらったこともすぐに忘れてしまい、チャーリィはなかなか賢くなれません。
「ぼくわ、かしこくなりたい」
この台詞がチャーリィのいちばんの願いとして台詞や歌の歌詞に何度も使われます。
賢くなればみんなの役に立って、お母さんにも、みんなにも、もっと愛してもらえる。そういう理由でチャーリィはこの言葉を何度も言い続けます。
でも、いくら勉強しても賢くなれない。
「かしこくなりたい。ぼくわ、かしこくなりたい!」
その気持ちがとても強いチャーリィを見て、アリスは人間のIQを高める手術の臨床実験の第一号としてチャーリィが適任なのではないかと、研究チームにチャーリィを推薦します。
実際に人間で実験をする前にラットでの実験が既に開始されていて、IQを高めるその手術を受けて経過観察をされているアルジャーノンというネズミがいる。
今のところは順調にIQを伸ばし、難しい迷路も簡単に解ける「天才ねずみ」になっていた。
自分もそんな風に変身できるんだ!と夢いっぱいで手術を受けることを決意したチャーリィ。
そして予想通り、今まで分からなかった問題がみるみるうちに分かるようになっていきます。
驚くべきスピードでIQが上昇していったチャーリィは、大学教授なみの専門書を読みふけり、20か国語を操り、まさに「天才」になります。
しかし、今までわからなかったことが分かるようになったということは、計算問題や難しい単語が理解できるようになったというだけではなく、周囲の人間が自分をどのように見ていたのか、どのように扱っていたのか、家族が自分に何を言ったのか、何をしたのか、ということも理解し、思い出し、見えてきてしまいます。
母親が自分にしていた虐待、妹からの憎しみ、パン屋の仲間からの嘲笑。
6歳児の知能しかなかったときはそれらを何も理解できずにいた。
母親が自分を捨てたから自分はパン屋にいたということ、妹が障がい者である自分のことを憎んでいたこと、パン屋のみんなは自分を馬鹿にしていたから笑っていたこと。
すべてを理解してしまいます。そして深く深く傷つきます。
さらに、6歳児知能だった頃には研究者チームの面々を「ぼくの頭を良くしてくれる天才の人たち」と思っていたけど、今となっては彼らが自分以下の知識しか持っていないことを知り、その知能の低さに驚き、自分の中で周囲の人たちを見下すような感情が生まれていきます。
周囲の人たちにとっても、「チャーリィは自分よりすべてが劣る奴」と安心しきって、庇護欲を満たす愛玩動物のような存在だったのに、今や自分よりも遥かに高い位置に行ってしまった天才チャーリィに自然と恐れを抱くようになり、パン屋を追い出されてしまいます。
「俺らを見下して、馬鹿にした目で見やがって!」
と、パン屋の仲間に睨まれて吐き捨てられてしまったチャーリィ。
チャーリィに母性にも似た感情をもって親身に勉強を教えてくれていたアリスでさえも、そんな感情を持ち始めます。
そしてそんな感情を抱いてしまう自分自身に、アリスも非常に戸惑い、自分に幻滅します。
賢くなった自分で家族に会って、今度こそ温かく迎え入れてもらいたい、と正体を明かさずに父のもとを訪れるチャーリィですが、15歳の時に自分を捨てた父は全く気付いてくれませんでした。
2人で暮らしているという母と妹のもとにも訪れ、妹は兄だとすぐに気付いてくれましたが、精神を深く病んで施設に入るべき状態の母を一緒に看病してもらいたい、私を一人にしないで、と泣きつかれます。
17年前に自分を「こんな兄は施設に入れてしまえ」と言った妹が、「母を施設に入れるなんて可哀想でできない。私を助けて」と今度は助けを乞う。
「かしこくなったらみんながぼくを愛してくれる」と信じて手術を受けたのに、必要以上の知能を得た自分が見たものは、あまりに身勝手に態度を変える人間の姿だった。
そしてまた自分もみんなと同じように、みんなに対する態度を変えてしまった。
術後すぐには知能の上昇を実感できずにイラつき、自分と同じ手術を受けて「天才ネズミ」となっているアルジャーノンのことを最初は嫌いだったのに、「君はアルジャーノンの知能をとっくに追い越しているよ」と教えられた途端にアルジャーノンに対して情が湧いてきてしまうという描写がありましたが、まさに「自分が優位に立った途端に相手に好意を抱けるようになる」という人間のサガが表現されていて、見事でした。
思い描いていた未来とはまったく異なってしまった現実に加え、知能だけは急スピードで上昇する一方で、人間としての情緒面ではまだ思春期くらいの経験しか得ていないせいで、頭脳と精神はアンバランスになり、情緒は不安定になる。
そのうちにアルジャーノンに異変が見え始め、餌を食べなくなったり、壁に身体をぶつけたり、異常行動・自己破壊行動が見られるようになり、さらには、迷路も解けなくなってしまう。
自分より先に手術を受けているアルジャーノンは、近い将来の自分の姿。
それを分かっているチャーリィは、残された時間を使って自分で自分の観察・研究を必死に進めますが、残酷にもどんどん知能の後退は進み、自分が書いた論文でさえも読めなくなっていく日々に焦り、恐怖を抱き、心身ともに衰弱していく。
そしてついに、アルジャーノンが死んでしまう。
その頃にはチャーリィもすっかり6歳児知能の頃の自分に戻っていたけど、かろうじて残っている記憶を頼りに、「自分を障がい者施設に入れてほしい」という願いを残します。
そして、「ついでがあったら、裏庭のアルジャーノンのお墓に花を供えてほしい」と最後に残し、施設に収容されていく。
このとき、「ぼくがダメだったから、またバカに戻っちゃった。またかしこくなりたいなあ。とても楽しかった気がするから」とアリスに言うんですが、賢くなっていた間のチャーリィは一度も笑顔を見せることはなく、苦悩しかなかったはずなのに、6歳児知能のチャーリィの記憶の中では「楽しかった思い出」にすり替わっていて、手術前のように穢れの無い笑顔をアリスに見せます。
その清らかな笑顔を見てアリスは嗚咽を必死に抑えて、泣き笑いでチャーリィを見送り、研究所のメンバーと共に花束を持って、舞台に置く。
というところで、幕です。
施設に行ったチャーリィがどうなったのかは明確な説明がありませんでしたが、アルジャーノンと同じように、間もなく息を引き取ったんだろうな、と分かる演出でした。
近年は科学の発達により生み出されたクローン動物なるものが存在するようですが、科学によって生命を創造したり、DNAや細胞をいじったりすることが倫理的にどうなのか、という「神への冒涜」的な問題提起ももちろん大きなテーマとしては掲げられているとは思うのですが、無神論者のセリ美が感じたテーマは、「人間の弱さと愚かさはIQに関係なく平等である」でした。
人間の弱さと愚かさはIQの優劣に無関係であり、誰もが同じだけの弱さと愚かさを持っている、というのが主題なのかな、と自分なりに結論付けました。
結局、チャーリィは賢くなっても幸せにはなれず、愛してももらえなかった。
むしろ、何もわからなかった頃のほうが多幸感があった。
チャーリィは「ぼくわ、かしこくなりたい」という言葉で表現していたけど、本当の願いは「愛されたい」だったのだろうと思います。
子供にとって絶対の存在である母親から殴られながら「賢くなれ、賢くなれ」と洗脳されていたせいで、「かしこくなればお母さんに愛してもらえるんだ」と、まるで「芸をしたら餌をもらえる」とインプットされている動物のように信じ込んでいた。
でも、本当の願いは「お母さん、僕を愛して」というただひとつの願いだったんだと思います。
まぁこの辺の「母親に愛されなかった子供」というのはまさにセリ美にも突き刺さってくる問題なのでいろいろと思うことはありましたが、とりあえずそれはさておき。
人間はみんな弱くて愚かな生き物。自分も含めて。
これがいちばんドスーーーーーンと重たくのしかかってきました。
だからどんな隣人でもキリストのように愛しましょう、っていうのではないです。
というのは、この観劇のとき、たまたまセリ美の隣に座っていらしたマダムが、たぶん「多動性障がい」ってやつの持ち主だったっぽいんです。ご本人に自覚があるのかどうかは分かりませんが。
観劇中、ずーーーーーーーっと指をもじもじ動かし続け、空中に何か文字を書いたり、グーにしたりパーにしたり、人さし指同士をぐるぐる回したり、バッグからハンカチを取り出したと思ったらそれを畳んだり広げたり、またバッグにしまったり。
もう気になっちゃって気になっちゃって。
宝塚でもいるじゃないですか。背もたれを何度も蹴ってきたり、飴や飲み物を何度もバッグから取り出してはしまって、ガサガサやってる人。
ああいう人も多分じっと座ることが耐えられないんだと思うんですね。悪意はなくても。
そういう人を、「これは多動性障がいっていう、きっと悪意のないものだから温かく見守らなきゃ」とは分かっていても、こっちも1分1秒にお金払って大好きな贔屓を観に来てるわけで、やっぱりイラついてしまいます。
セリ美も何度もそのマダムに「それ、気が散るのでやめてもらえますか?」と言いそうになりました。
今日のこのミズさまを拝むためにつらい仕事もコツコツ頑張ってやってきて、なけなしのお金でチケット買ってるわけですから。
「きっと悪気があってやってるわけじゃない、本人も止めたいけど止められないのかもしれない」と分かってるのにこうしてイライラしてしまう自分は、仕事が覚えられないチャーリィにイラついたりするのと同じで、セリ美もやっぱりパン屋のスタッフと同じなわけです。
ということは、もし自分の周囲に「自分はこの人より優位に立ってる」(ステイタスとか、お金持ち具合とか、外見とか)と余裕な気持ちで接していた人がいたとして、もしその人がある日突然自分よりお金持ちになっていたり、自分より美人になってちやほやされていたり、自分よりいい大学に入ったりいい会社に入ったりしたら、それまでと同じ気持ちで接することができるだろうか?と思うわけです。
セリ美は小学生の時、親に言われて進学塾に通っていました。
その塾でセリ美と同じ小学校の女の子は一人しかいなかったので、自動的にその子と仲良くなり、一緒に塾に行ったり帰ったりしていました。
その子はセリ美よりも学力が下のクラスにいたんですが、ある時の試験を境にして、セリ美と同じクラスに上がってきて、ついにはセリ美よりも上のクラスに上がっていきました。
まさに、「ウサギと亀」状態。
こうしていまライターの仕事をしているように、生まれつき日本語に対して勘が鋭かったセリ美はろくに勉強もせずに国語の点数だけでそこそこのランクをキープしていたわけですが、そんな怠慢人間は努力している人になんて余裕で追い越されます。
心のどこかで「この子より私は頭がいい」と余裕ぶっこいて木陰で居眠りしていたセリ美が目を覚ますと、亀さんは自分を追い抜いていた。
そこで「ぃやっっっべええええ!!!」とようやく気付いてなんとかその子のいるクラスまで自分を引き上げたんですが、この場合はお互いにライバルとしての気持ちを持つことで切磋琢磨できるというメリットのある関係ですが、人間ってのはこうして自分よりも下だと思っていた人間に追い抜かれると、とてもじゃないけど「おめでと~良かったね~」なんて平常心ではいられません。
だから、観劇中にアルカイックスマイルで隣の多動性の人を温かく見守れない自分がいても、自分を責めなくていい。
弱くて愚かなのは、みんな同じなんだから。
IQが高くても低くても、みんなそれは同じこと。
という、自分や他人に対する赦しの気持ちが生まれたということと、「できる範囲でいいから、弱くて愚かな自分や隣人に優しくできる自分でいることを心掛けながら生きていこう」と改めて思えたこと。
さらに、「棲み分けてもいい」ということ。
自分が居心地のいい場所で、居心地のいい相手とだけ接してもいい。
無理に気の合わない相手や、自分を傷つけてくる人と接する必要はない。
そういう人たちを遠ざけることは別に冷酷で無慈悲なことじゃない。
チャーリィに対して全員が何かしらの「罪」な行為を行っている、という作品を観て、自分も含めた人間への「赦し」を知る、という素晴らしい作品でした。
罪を知って、赦しを知る。
なんか哲学的でいいですよね。
人間の弱さと愚かさ、というテーマに関しては、SAPAも同じだったと思うんです。
でもSAPAはなぜか観劇後に絶望しか残らなかった。
くーみんとオギーの違いは、何なんだろう。
いまだにそれは分からないです。
演出家としてのキャリアの違いなのかなあ。
もしくは、根本に持ってるくーみんの怒りとオギーの赦し?
くーみんの動とオギーの静?
この辺はもう少し、考えてみたいと思います。
宝塚時代からオギーと何度もタッグを組んできた斉藤先生の素晴らしい音楽や、主演のチャーリィとミズさま以外の演者さんたちにあえて何役も演じさせる手腕という、舞台芸術としてのレベルの高さも見事でした。
そんな素晴らしい作品に出合えて、またひとつ人としての新しい気付きを教えてもらったところに、タイミングいいんだか悪いんだか、攻撃的な声を浴びせられた出来事が続きました。
こうして自分の意見や作品を世界に向けて発信する立場にある限り、誰かの攻撃の手から完全に逃れることは不可能で、芸能人にしろスポーツ選手にしろ、矢面に立つということは、誰かのストレスのはけ口に利用されてしまうということがしばしばあるわけです。
一応、そういう覚悟のもとにこのブログも開始しました。でもセリ美も弱い人間ですから、なかなかドーンと構えていられるほどの心の強さはなくてね。
今の時代のように、面と向かって言わずとも画面の文字越しに文句を言いやすい状況だと、やっぱり気軽に攻撃しやすいわけですよね。
そういうことで木村花ちゃんとかも追い込まれていってしまったわけですが。
目の前に緩衝材のプチプチがあったら、人はつい手に取ってプチプチしてしまうように、イライラしたところにちょうど叩きやすそうなものがあったらやっぱり手を出してしまうんでしょうね。
このような公な立場だと、そのプチプチにされてしまいやすいわけで。
そこにも、チャーリィに罪な行為を行った人々と同じ感情の動きがある。
自分の良心や理性だけでは、その罪の行為を抑制できないのが人間なんだな、と思ったわけです。
もしくは、ストレスのはけ口に利用しているという自覚は全くなく、むしろ自分は正しいことをしていると思い込んでいるパターンも多いわけです。
それが自粛警察の心理ですよね。
そういう無自覚のプチプチ行為に対して、プチプチされちゃった自分はどんな感情をもって対峙すればいいのか。
ブログを始めてからそれはもうずっとセリ美の中での問題提起だったわけです。
でも、この「アルジャーノンに花束を」を観て、人間は自分も含めてみんな愚かで弱い生き物なんだから、プチプチされちゃったことに対して頑張って許す必要もないし、「何も悪いことしてない私をどうしてプチプチするんですか?」って相手の弱さを掘り下げようと対話をする必要もない。
私は私が進みたい道を見定めて、そこに向かって、好きな人たちと笑い合いながら助け合いながら楽しく突き進んでいけばいい。
なんだかやけに理不尽なこともたくさんあったけど、できるだけそれを自分の糧にして、私は私の人生を充実させるべく、好きな人たちにできるだけ優しくして、無意識に傷つけないように留意して、『いろいろつらいこともあるけど、自分の夢に向かって闘い抜いてる!』と胸を張って言える人生を送ればいい。
アルジャーノンを観て得た価値観と、偶然にそのあと続いたプチプチ攻撃を経て、そんな逞しさをひとつ手に入れました。
ジェンヌさんたちも、各業界の第一線で頑張ってる人たちも、きっといろいろあるけど頑張ってる。
もうすぐ配信ライブを行うと話題の嵐の皆さんも、ただみんなの笑顔のためと自分の人生のために頑張ってるだけなのに、いろいろとアンチやらマスコミからひどいこと言われて、大野さんなんてそれにすっかり疲れちゃったくらいいろいろと精神を消耗したんだろうけど、でも「この日までは精一杯がんばります」って誠意ある区切りを決めて、きっと今日も配信ライブの準備や他のお仕事やらで頑張っていらっしゃるのでしょう。
いやセリ美はそこまで嵐ファンではないですけども。「第一線で頑張ってる人」の代表として挙げてみました。
ただ人生を頑張ってるだけの人を、プチプチ目的で馬鹿にしたり攻撃したりする人は、絶対自分の人生を頑張ってない人に決まってる。
セリ美は誰にも恥じることないくらい自分の人生を頑張ってます、闘ってますって胸を張って言えるから、プチプチされちゃったことなんてどうでもいい。
セリ美はそんなステージには立ってないので、心だけは嵐さんと同じ、第一線で闘ってるつもりなので、明日も仕事がんばろうっと!!
アルジャーノンを観たあとの私はいまそんな気持ちです。
今でさえすごい忙しい仕事量なのになぜかまた新しい仕事増えちゃってどうなっちゃうのって感じですけど、やっぱり「あなたに書いてほしい」って言われたら応えてみたい。
ひとつの大きな会社がセリ美の書いたもので成長していく助けの一つになるなら、今日もヒィヒィ言って夜中のポテト食べながら頑張るのです!!
それじゃあいつまで経ってもミズさまのようなパーフェクトボディーにはなれないケド…
いやそもそも脚の長さが…
ということで、今日も適度にダラダラしつつ、宙組の初日を待ちわびながら適度に頑張りましょう!
息子が娘としてフィナーレも出るってほんと…?!
きっとすごく可愛いのでしょうねえ…


コメント
コメント一覧 (8)
こんにちは。
へー「アルジャーノンに花束を」ってそんな話だったんですか。観に行けばよかった。職場のすぐ近くだったのに。でも宝塚では絶対やらなそうな話ですね。
自分は映画だと暗い or 考えさせられるストーリーが好きでして、それゆえ昔から同行者がいなくて苦労してます。(例「モンスター」「ブロークバックマウンテン」「告発のとき」など)
たぶん荻田先生は自らが挫折を経験されていて、ゆえにこの主人公の家族やパン屋の人のように態度が変わる人たちに己を投影したうえで演出されているんじゃないですかね。なんとなく。
先ほど月組東京公演の一般前売り(前半日程)惨敗しました。。。でもチケットが売れていてホッとしました。
観劇レポート、興味深く拝読いたしました。
くーみんとオギーの比較は難しいですね。
くーみんがアルジャーノン演出したらどんな感じかしら?とは興味がありますが、宝塚ではないな。
ただ思うのは、アルジャーノンは物語が優れているので、上手い演出なら、魂を揺さぶる作品になっていたのでしょうね。
SAPAは、くーみんが言いたい事ややりたいことがイメージのまま終わってしまって、物語が完成していなかった感じがします。
やっぱ、物語は大切だと思います。
雪組のご卒業の皆さま、わかっていたけどいささかショックを受けながら、これからの宝塚に思いをはせています。
東京はチケット売れているんですね。よかった、よかった。
アナスタシアの一般発売、余裕で買える状況なので、心配しておりました。
セリ美さんはプチプチを覚悟のうえで、このような心潤う場所をつくっていただいて本当に有り難うございます。
アルジャーノン、ミズさまは再びのご出演だったのですね。ミズさまは出られてないけれどTVドラマをもう一度見てみたいと思います。
自分の弱さや愚かさを認めつつ、好きな人たちと笑い合いながら助け合いながら楽しく突き進んでいく…サウイフモノニマジョハナリタイ
息子さんのWSSのミュージカルスターぶり、評判のみ聞いていたので、アナスタシアのフィナーレまで楽しみです。
「アルジャーノンに花束を」のんのんはタイトルと大体のあらすじしか知らなくて、今日図書館で他の本と一緒に借りて来ました。
オギーとウエクミ先生の違い………
セリ美さんに深い感動をもたらしたオギーの舞台は観ていないので、なんともですが、セリ美さんの感想を読む限りでは、物事や人間を見つめるスタンスの違い かもしれませんね。
オギーの場合は、人生重ねる中で育まれた受容 寛容、観る者を包み込む愛と光。ウエクミ先生の場合は、世の出来事や人間を演出家らしく鋭い目を持って見つめ、これでいいのか!?と、観る側に迫ってくるような白刃。
セリ美さんのブログを読んでのんのんはそんな風に感じました。
さて!昨日、「はいからさんが通る」行って参りました!実に8ヶ月ぶりの東京宝塚劇場、懐かしや!
肝心の新生花組ですが………一言でいうならのんのんは「うーーーん」ていうカンジでしたねー。まとまりがないワケじゃないんですが、求心力に欠けるというか………観ていてすべてを忘れて没頭出来ないというか………お!これはイケる!!と感じられるジェンヌも見つからなくて………。大体、マイティにしてもあきらにしても、1幕は本当に出場が少ない!1幕を50分に縮め、2幕を90分にして後半に厚みを持たせればよかったんじゃないかなーーー
そして、セリ美さんのおっしゃる通り、ひとこのいる意味って………ていうくらいの扱いの軽さでしたね。
でも、ミラーボールが多用されて久々、ゴージャス、華やかな 宝塚 というステージを味わえました。
あと、のんのんの前の座席でお年寄りのご夫婦(多分)が仲睦まじく、本当に楽しそう〜に、熱心に舞台をご覧になっていたのが印象的でした。
アルジャーノン直前に美味い天ぷら、贅沢な日で御座いました。
アルジャーノンは宝塚じゃ無理ですね~~(笑)
うみひこさんはきっとお好みだったと思うので、観ていただきたかった!!
オギー、ツイッターで漂う雰囲気だとやはりものすごく繊細な感性をお持ちのようでいて、どんなに暗いお話でもお稽古場ではかなり明るいということなので非常に不思議な方です。
人間のひどい醜さを描きながらも、「結局はみんな弱いんだから許しあっていこう」と温かい気持ちになれるのがさすがです。
宝塚時代はショー作家として大人気でしたが、こんなに演劇作家としての手腕もお持ちだったとは…!
月組、また観られたら感想お待ちしてまーす!
アルジャーノン、セリ美は原作の本をずいぶん前に読んでいましたが、「大感動!」でもなく、「大批判」でもなく、「ふ~ん」止まりだったので、今回オギーのおかげでようやく「素晴らしい作品だ!」と気づくことができました。
どうも小説を読む才能がないんだよなあ。。
SAPAは確かに「挑戦」としてはものすごく有意義な作品でしたが、やはり挑戦の面が強かったので粗削りで、きっとくーみん自身も課題が多く残ったんじゃないかな~と勝手に推測しています。
これを経てどんどん宝塚に革命を起こしてほしいです。
おおなんと、お友達がプチプチされちゃいましたか…おかわいそうに…
でも多少でも気が晴れたのでしたら、ブロガー冥利に尽きるというものです。
好きなカテゴリーが同じだからこそ解り合えないことがあるのは、よ~~っく理解できるんですけどもね。
「自分は誰かをむやみに傷つけていないか?」と戒めながら生きるのは非常に神経を使うことなので、つい思いのままに誰かをプチプチしてしまうのでしょうけど、「自分は絶対にそういう人間にはならないんだ!!」と反面教師にする思いで御座います。サウイフモノニセリミモナリタイ
息子の性転換は母ながらに「そうか、うちには娘がいたんだった」と錯覚するほどあっぱれでした。
第3派が到来してしまってまた観劇に勇気が要るような状況ですが、とにかくタカラジェンヌもヅカオタたちも、健やかにこの終息を迎えたいものです。
「アルジャーノン~」、いかがでしたか?
セリ美が何十年も前に読んだときはもちろん興味深く読み進めましたが、どうも小説を読む才能がないもので、「大感動!」でも「大批判」でもなく、「普通に面白かった」程度の感想しか抱けず…
でもいま読めばまた感想が違ってくるのかな。
オギーの生育環境もくーみんの生育環境もよく知らずに想像で語ってしまって大変失礼ながら、くーみんには「心の闇」をあまり感じないんですよね。根底には揺るぎない自信があって強気な感じです。
一方で、オギーにはすごく「心の闇」を感じます。闇を知っているからこそ描ける世界を表現しているなあと、宝塚時代から思っていたので、そこの違いなのでしょうかねえ…?
はいからさん、やっぱりどうしても別箱レベルがちょうどいい作品なんですよね。
花組全生徒をまんべんなく使えるほどの役がないのがいちばんの問題点だったような気がします。
確かに、カレー華というトップコンビなら少尉と紅緒さんをやらせてみたいというのはよ~~~っく分かるので、歌唱面などに不安のあるお二人のお披露目にビジュアルの力技で押せるからふさわしい、と劇団やPが判断したのかもしれませんね。
セリ美の読者さんにもご夫婦でヅカファンの方がいらっしゃいますし、セリ美茶にもご夫婦でいらしてくださった方が見えたので、ご夫婦で同じ趣味って無敵だな!と思いますね~
一人で黙々と劇場通いもまたさすらいの仕事人みたいで自分に酔えるんですけどね。
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