牛





1月7日にもなってようやく新年のご挨拶になってしまいまして…

しかも1月1日は当ブログの設立記念日だというのに…
めでたく研4になりました。



「年末年始に仕事すればいいや~」なんつって余裕ぶっこいてたらまんまと寝正月になりましてですね、世間様と同じタイミングで仕事始めをしたらあまりの仕事量にいま泣きながら仕事しております…

しかも寝正月のせいで典型的な正月ボケになり、大スランプでしてね…全然文章が降りてこなくて徹夜確定ですよ。
歯も相変わらず痛いし…



なんでか年末年始っていつも割と波乱万丈で、穏やかで何もないってことがほとんどなくてね。困っちゃいますね。

それでもダイエット協会就寝名誉会長に相応しくない暴飲暴食を見せて「やりきった」感はありましたけどね。






気休めでしょうけど一応ジム通いは続けております…

と言い訳しておく…





そんで2021年の観劇はじめはfffだったわけなんですが、これもなかなかどうしてとんでもねえ作品でして、いまセリ美は混乱の渦中におります。


くーみん、どうやら第2形態に突入したようです。
ビジネス的に言えば次のフェーズ、ってやつね。

誰もが大号泣の美しく切ない悲劇という作風を越えて、SAPAから「演劇の意義」というものを観客に突き付ける作風になったとみています。


SAPA、セリ美の中では「疑問が多く残る問題作」という評価で止まってしまいましたが、fffも観劇直後は同じような感想を抱きました。


「…なにこれ???」


という感想。

悲劇でもなく、コメディーでもなく、伝記作品でもなく、人間以外のものもたくさん登場して、最後もまるでショーみたいな終わり方。


でも、「意味わからん。」で終わらせてしまえない、なんとも言えぬ残る反芻。

まあやの存在の意味、ベートーヴェンが辿り着いた境地の意味、ベートーヴェンがナポレオンやゲーテに憧れて失望した意味、一樹さん率いる天使チームの意味…

とにかく、訳が分からない。



でも、絶対にどこかに隠れている、くーみんが仕込んだ壮大なテーマ。

それを絶対に探り当てて見せる!これはくーみんから我々ヅカファンに叩きつけられた挑戦状なのだ!!!
と妙な意欲が駆り立てられる、果たし状みたいな作品でした。




くーみんが2018年に母校の京都大学で行った講演で、大変貴重なお話をたくさん聞いてきました。
そこで配布されたレジュメには、くーみんが作品を作るときに常に大切にしていることや、自身を駆り立てているものの根源などがみっちり書かれています。

以前にも何度かこの講演内容を書いたことはありますが、またここでその目次だけでもちょこっとさらってみましょう。




講演のテーマは『パンとサーカスの危ない時代に』です。

「パンとサーカス」とは、「大衆に疑問を抱かせないように、真実に気づけないように、パンとサーカスでも与えて満足させて目を逸らさせておけばいい」という風潮のことです。

この大人たちのトラップに疑問を抱け!!騙されるな!!という革命家のスローガンみたいな意味でくーみんは掲げているようです。





序章 「ゆでガエル」


これは、いきなり熱湯に放り込まれたカエルはグエエエエと暴れて死んでいくけど、水に入れられて少しずつ温度を上げていけばカエルは温度が上昇していることに気づけないまま死んでしまうという例えです。

つまり、我々もそうなっていないか?!という問題提起にこの文言を使っています。


地球温暖化もじわじわと平均気温が上がってるから、事の深刻さにあんまり気付いてない人が多いけど、数十年前の平均気温から今の最高気温40度の世界に放り込まれたらそのあまりの違いに驚くはずなのに!
ゆでガエルになっている我々は気付けないでいるのだ!!

という意味ですね。


いま主流になっている風潮、本当に我々のための改善なのか?!改悪じゃないのか?!演劇もそうじゃないのか?!と言いたいのだと思います。
で、「いま主流になっている風潮」という具体例を、このあとに続く第一部と第二部で挙げていく論文になっています。





第一部 ピュアエリアの成立と「悪」の行方


ピュアエリアとは、「悪が一切存在しない無菌室」みたいな意味です。
〇〇ハラスメントという言葉が多岐にわたって存在して、いろんなストレスや苦痛から自分を解放しよう!という動きが盛んで、子供も大人もとにかくストレスフリーになることが善とされている事態を説明している言葉です。

不謹慎な言動や不倫を徹底的に世間から排除して、子供を怒鳴るカミナリ親父や暴力教師という「悪」という存在が消え失せていく。不謹慎だと叩かれた芸能人は「とりあえず謝って自粛する」というのがスタンダードに。

でもその先にある世界は本当に「善」なのか?暴力がなくなった代わりに、言葉の暴力(SNSいじめなど)が誕生したではないか!結局「悪」は消滅などしないのだ!「目に見えにくい悪」というタチの悪いものに変化しているだけなのだ!ということですね。


それならば、「悪」を「悪」としてしっかり可視化したり認識しているほうがよほど人間の精神は健全でいられるのではないか?という提案をして、第二部に続きます。



~~幕間~~



第二部 物語のアトラクション化と、これからの物語


映画でも舞台でも、昨今人気を博す物語というのは、まるでジェットコースターのようだ、と。
乗っている時は適度に心地のいい刺激が適度な感覚で与えられてそれなりに「ああ、楽しい!」と思えるけど、見終わった後には何も残らず、中毒性だけはあるけど栄養価は低い「ジャンクフード」のようなものになっていると感じているそうです。

観る前と観た後で違う自分になっていた、みたいな影響力が無いと厳しめに批評しています。

主人公が定期的に苦難に襲われ、定期的に乗り越えていく、誰が見ても分かりやすいストーリー。ストーリーを自分なりに嚙み砕いて頭で読み解いていくような、「観念的」な要素が少ない、と。
昨今のエンタメは、

「ただ椅子に座っているだけで物語が『ここが気持ちいいんでしょ~』とばかりにこちらの快感ポイントを撫でさすってくれるから楽だな~、という受動的な見方しかできない」

ものと表現しています。


そうなった理由としては、インターネットやスマホの普及により、大衆が気軽に自分発信で自作のエンタメや動画を発信できるようになった背景が大きいとしています。
それにより、産業も変わっていった。

以前は「流行は産業側が生み出し、消費者に与えるもの」だったけど、大衆が発信権を持ったことで立場が逆転して、「消費者が流行を生み出して、産業がそれに合わせて動く」時代になり、好まれる物語も消費者が「これ、いいよね~」と発信するものが主流になった。

それが、「物語のアトラクション化」ということですね。

いわゆる、俗っぽくなった、ということなのかな。



そんな時代を迎えて、物語の役割ってこれからどうなっていくの?と。

昔は、一部の選ばれし才能を持った人間が魂の叫びから生み出した文学作品や映画、演劇から観衆は様々な観念や価値観を自分たちの頭で考えてそれぞれに感じ取って人生に活かして、「人生観が変わる」ような体験をしていたものだけど、「観てる最中は気持ちいいけど、観た後に何も残らないような物語」って人類にとって本当に必要なものなの?本来の「物語の役割」ってもっと違うんじゃない?と。


・様々な価値観を知り、認めること
・人生の辛苦を肯定すること
・「悪」を可視化して自分の中にも存在する「悪」を吐き出すこと


この3つをくーみんは「物語の本来の役割」として挙げています。


不倫したり愚行に走ったり裏切ったり、物語に登場するいろんな人物を見て「人間ってそういうところ、あるよね」と認めて、主人公たちを襲う苦労を見て「人生ってどうにもならないつらいこと、あるよね」と「人生はつらいもの」と肯定して、どうしようもない悪役を見て「コイツどうしようもねえな!でも自分の中にも悪は少なからず存在するんだよなあ」と自分の悪をたまには日に当ててホコリを叩くことで、自他それぞれの悪を少し許しやすくなったり、必要以上に傷つかなくなる。


物語というものを見たり読んだりすると、このような効能があるはずなんだ!と。



(そういう演出家に、私はなりたい)というくーみんの揺るがぬ強い信念がレジュメの最後に書いてあるように思えた講演でした。







このレジュメはあまりにも壮大で、もはや優秀な大学生の卒論としても遜色ないほどの大作なので、セリ美みたいなもんにはまだまだ読み解けていない部分がたくさんあると思います。

でも、いま改めて復習してみると、fffは「人生の辛苦を肯定した末に待つ歓喜」がテーマになっている作品だと気付くことができました。



このレジュメの最後の文。


苦労は辛く、時に生きる希望を失いそうになることもある。それでも、それらを「感じる」ということそのものがあってはならないことだと自分を責めずに、命の営みとして何とか受け入れてきちんと感じる過程を経たのちに、人はいつしかまた未来に向かって歩き出すのだろう。


とあります。
まさに、fffはこのようなラストシーンに仕上がっています。



かといって、セリ美はまだ「そうか!完全に理解したよくーみん!やっぱりあなたの作品は素晴らしい!ブラボー!ベートー勉!!」という次元には到達できていませんで、正直言って


「多様な価値観を認めて人生の苦労を受け入れたのちに、人はまた歩き出せる」なら、今も昔も自殺者はいないし戦争も起きてないしセリ美も虐待されてないよなあ…


という反論はあります。




でもその一方で、過酷な人生を生きて、その中で涙を流すほど爆笑したり人の情に助けられた瞬間をつなぎ合わせながら生き延びて逞しさを手に入れて、「今日が一番幸せ!」と言える今の強いセリ美を手に入れたという実感もあったりします。
それがfffのラストシーンとリンクしないでもないです。


そしてまた、何かを生み出すクリエイターとしては、精神が激しくかき乱されるような辛苦の中に身を置いているほうが神経が常に研ぎ澄まされていて、いいものが生まれやすいということもセリ美はクリエイターのはしくれとして実感もしています。
日々平和で安穏としている中で、どうして魂の叫びが刻まれた傑作が生まれようか。否。

セリ美がまだ実家で暮らしていて、毎日生きるか死ぬかの瀬戸際にいたときのブログをいま読むとかなりキレキレで、過去の自分に嫉妬するくらいです。

あのとき、どうしてあんな表現や価値観が生まれたのか、自分でも不思議です。


辛苦から解放された今はずいぶん文章も考えも平凡になったもんだな~~でもやっぱ平和がいいよね~~と思ったりしています。

だって、

「非凡で華やかだけど地獄のような人生と、地味で平凡だけど穏やかで平和な人生とどっちがいい?」って神様に言われたら、多くの人が後者を選ぶと思うんだよね~。




くーみんの生育環境やバックグラウンドはご本人もあまり語らないし、よくわからないのでなんとも言えないのですが…

くーみんが掲げる「人生の辛さ、理不尽さ」とか、「それを乗り越えての全能感・悟り」みたいなのって、ん~~ちょっと実感がこもってないっていうか…
くーみんがそういうドラマチックな生き方に憧れて書いてる、という感じがあるんですよねえ、なんとなく。


それならば、おとぎ話性がある『月雲の皇子』~『神々の土地』の5大悲劇期のほうがくーみんに合っている気がして。
あんまり「人間とは!」「人生とは!」みたいに説教臭いものじゃないほうが、逆に真実が見えるような気がするんですよねえ。



同じ、音楽家の人生を描いた『翼ある人びと』とfffは何が違うのか…
もうちょっと深く考えて考察してみる必要がありそうです。




でも、まさにくーみんがレジュメで力説している

ストーリーを自分なりに嚙み砕いて頭で読み解いていくような、「観念的」

な物語に仕上がっています、fff。
起承転結があって、最後はこんなオチです~という分かりやすい構造では全然ないです。
まさに「観念的」。
そして斬新。賛否がどうであれ、なにごとも挑戦や変化はすごく大切なことです。
セリ美もどんどん新しいことに挑戦していくミズさまを敬愛しているし、セリ美もそうありたいと思いながら生きています。石橋叩きまくるセリ美は失敗がすごく怖いけどね。




こうして「あれって一体何だったん??」と日がな一日悶々と考えさせることが、アトラクション化していない、本来の役割を全うしている物語であるとするなら、まさにくーみんの狙い通り、思う壺ですね。

今のセリ美は仕事をしながらもずっとベートーヴェンやゲーテのことを調べたり演出の細部を思い出したり、次回観劇で確認すべきポイントを整理したりしています。

こんな作品、久しぶりですね。


くーみんの「してやったり」のニヤリ顔が脳裏にチラつきます。
どうにかもっと考察を深めて、「くーみん!解ったぞ!!!」と、この果たし状に勝利で応えたいと思っています。





でも、それよりも何よりもまあやの大暴れにもうセリ美は完敗です。土下座です。一生ついていきます。まあやの裾に口づけを…!!まあや万歳!!!





では、おやすみなさい。

ひと眠りしたらまた徹夜です。
でもセリ美は耳も聴こえるし暴君の親からはもう解放されてるから、頑張れる!


今年も自分らしく独自路線でやっていきますので、よろしくどうぞ~







東京の息子(娘)にも会いに行きたいから母さんがんばるよ…