↓これ書いたの1か月も前なんですが…
続き書くの忘れてた…
一応そのまま載せてみます。
すんげーいろんな〆切が真後ろに迫って来てて頭おかしくなりそうなので無駄な導入話はせずに本題に入ります。
行ってきましたよ、くーみんオペラ。
留学する前の最後の演出になるのかしらねえ?
さすが文化庁主催、予算が潤沢なようでチケット代が安くて大変助かりました。
オギーなきあと、「この人の作品なら絶対間違いない」と思える演出家が入ってきてくださり、ああこれで宝塚もしばらくは安泰ね…なんて思っていたら、ね。
宝塚の稼ぎ頭がいなくなってしまったのはとても残念だったけど、退団後のくーみんを見てるともう「そうよね、こんな人が宝塚にとどまっているわけがない」と感じますね。
「推し活」に対するネガティブな意見をくーみんが述べていて軽く炎上していましたけど、別に推し活を否定したわけじゃないと思うんですよね。
推し活も芸術も、両方楽しめる感性を持ってると、もっと価値観が変わってくるから推し活だけで人生終わらせちゃもったいないよ、みたいなことだったのかもしれないですね。
あらゆる生物の中でこんなに複雑で面白い生き物は少なくともこの地球上にはいないんだから、いいところも悪いところも「人間」「文化」ってものを楽しもうよ!みたいな感覚なんですかね。
ストーカー殺人とかも最近博多で起きましたが、ああいうのも本当に不思議な感情ですよね。好きなのに殺しちゃうっていうのが。まぁ激情とかもそうですけどね。
ホセがカルメンを殺すってそういうことですもんね。
でもそれもしっかり犯人の心情を追求してみると、女性のことが好きなのではなく、「自分が好き」だったんだなってことが多くあると思います。
自己肯定感がうまく育たず、好みの外見や性格の人に好いてもらえないと「なんで好いてくれないんだ!!」って許せなくなるとか。
でもじゃあ正常な「好き」って何?って訊かれればそれもよく分からない感情ですしね。
少なくともセリ美の感覚的には「好き」ってよく分からない感情です。
……え?ミズさま好きじゃないのかって?
ミズさまに対する感情は「憧れ」「尊敬」です。ミズさまに個人的に会いたいかと言われれば、全く会いたくないですしね。
あくまで遠くから眺めていたいので、この感情は「好き」とは違う気がします。

……え?じゃあ息子好きじゃないのかって?
息子に対する感情は「芸術鑑賞」と似てますね。
特にタカラジェンヌでいる間って人となりは分かりませんし、岡山出身の詩織ちゃん個人のことを好きではなく、あくまで和希そらという舞台人を観ると大変に満足した気持ちになる、というところでしょうか。
………え?好きな友達とかいないのかって?
気が合うな~とか、居心地のいい人だな~とか、尊敬するな~とか、頭のいい人だな~とか、自由な発想だな~とか、そういう具体的な感想は持ちますが、それが「好き」かと言われればよく分からない、という感じでしょうか。
なぜなら、セリ美には「寂しい」という感情がほとんど無いからです。
セリ美はたぶん完全引きこもりで誰とも会わなくても「寂しいな、誰かと会いたいな、話したいな」と思わないんですよねえ。
気の合うお友達と会えばもちろん「楽しかったな~!」とは思うんですが、会わなくても大丈夫です。寂しいという感情が無いので。
じゃあ忍は?って?
忍と暮らし始めてからまだ4か月ほどなので感情が確定していませんが、きっとこれが初めての「家族愛」ってやつなのかなあ?とは思っています。
でも「ふわふわしててあったかくて可愛いなあ」「幸せにしてあげたいなあ」という感情って、イコール好き、なんでしょうか?
よく分からないです。
「好きという感情が分からない」というこれは、セリ美が家族から無償の愛を注がれるという体験をしていないことに起因すると思っていますが、でもセリ美と似たような環境で育った人がみんなこうなるかと言えば、セリ美のパターンはすごくレアなんだと思います。
むしろ普通の人よりもすごく寂しさを抱えた人間に成長してしまって、平均的な愛情じゃ足りない!!っていろいろ暴走する人のほうがほとんどなのかなと思います。
ま、そんな「愛情の枯渇度」も人それぞれ値が違うのもとても面白いですよね。
そしてネットというものを使って気軽にその場で他人と繋がれたり褒められたりすることができるようになった現代では、その「寂しい」をみんな手軽に埋めようとSNS天国になっているわけですね。
「寂しい」をあまり知らないセリ美は、愛情の枯渇度が可視化されているSNSを覗くのがあんまり好きではないんですが、この仕事柄、見なくてはいけないのでなかなか大変です。
「寂しい~~~~!!!」のうめき声の大合唱がスマホ画面やパソコン画面から溢れてくるので、なんかすごく苦しくなるんですよね。
リア友さんのアカウントにしても、普段会ってるときはそういう感じしないのに、SNSでは割と人格が変わっちゃってる様子を見るのもしんどいしね。
そういう、「人間って面白いな~~」っていうアンテナがくーみんはすごく敏感で、
↑ここまで下書きに残ってました。
ここから先、何を書こうとしたんでしょうねえ…
やっぱり観劇レポって新鮮なうちに書かないとダメだから、今となっては「相変わらずすげーものを観た」くらいの感想しか出てきません…
あ、今回のオペラのポスターに殴り書きしてあった「みんなさみしいねん」っていうのに繋げようと思ってたんだ!
結局、人間が悪いことするのって、元を辿っていくとみんな「さみしかった」に繋がると思うんですよね。
そういう人間の醜さの根源となっている「寂しさ」を見せた作品だったな、と思います。
皆さん、一条ゆかり先生の漫画って何か読んだことあります?
一条ゆかり先生ってすごくリアリストっていうか、漫画にありがちな綺麗ごとの世界は描かずに、「憎まれっ子世にはばかる」を割とメインに描いてるなってイメージなんですね。
結局、腹黒くて嫌な奴が最後に勝つ、みたいな、神も仏も無いような物語を。
でもそれってやっぱり真実だよなと思うんです。
図々しければ図々しいほど勝ちだし、わがままであればあるほど得をします。
逆に、人に優しくすればするほどつけこまれますし、人に譲れば譲るほど損をします。
人間世界ってそういう風にできています、残念だけど。
そこで悪の道に進むのかそうでないかは、各々の正義感とか美徳観によって変わってくるんでしょうけど。
セリ美は優しい人間でいたいので、たとえ損をしても構わない、とけっこう頑張って生きてます。
それにつけこまれて利用されることがとても多くて苦しいけど、図々しくて腹黒い人間になるよりよっぽどいいから。
くーみんも、一条ゆかり先生みたいなものを創るタイプだなと思いました。
宝塚はやっぱり「正義は勝つ」が大前提ですので、きっとくーみんもそれに合わせて、ヅカファンがいかにも好みそうなものを創っていたのでしょう。
そしてその縛りから解放された今は、一条ゆかり先生と同じ「結局、憎まれっ子は世にはばかるんだよ」「みんなさみしいねん」を突き付けてきますし、人間ってこんなにも醜くなれるような生き物なんですよって見せつけてくるんですね。
それがとても苦しくもあるけど、くーみんのすごいところは、それを笑い飛ばそうとしてるところなんですよね。
今回のオペラでも、大阪ミナミのチンピラ(日野さん)が出てきて、「ワシすごいやろ!どや!」と地域の人たちにオラオラして幅利かせてるわけですが、セットに映し出される字幕に
「日野さん、さすがやわぁ~」
「知らなかったわぁ~」
「すごいなぁ!」
「センスええわぁ~」
「そうなんやねえ!」
(褒めとけ褒めとけ)
(魔法の言葉、さしすせそや!)
とか出てくるんですね(笑)
世界的なオペラ歌手が歌ってる最中なのに!
ゴミみたいな、っしょーーーもないチンピラと、それにゴマすりながらじゃないと生きていけないコミュニティの人々を崇高なオペラと置き換えてるわけですから、そりゃー斬新ですわ。
結局は乱暴者が勝ち、悪くてずるいことしてる奴が得をする、っていうこの世の理不尽な真実をジョークにしちゃってるところが、セリ美がくーみんを「好きだな~」と思うところのひとつです。
真面目に一生懸命働いてる人がなけなしのお金をがっぽり徴税されて、働かずに毎日パチンコ打ってる奴がうまいことやって生活保護もらって遊んで暮らしてる、みたいなこの世の理不尽ですよね。
そういうのを「ははは!ばからし!」って笑い飛ばすところがくーみん作品にはあるように思います。
それは前作の『バイオーム』でもそうでした。ものすごいシリアスなお話なんですけどね。
「発達障害を持っている息子を施設に預けようっていう深刻な話を、ランチでとんかつ食べながら!キャベツにソースかけながら!あなたは私にしてきたのよ!あははははは!!」っておハナさまは爆笑しながら言ってました。
いやこれはもうジョークとかじゃなくてほぼ狂ってるから笑っちゃってる部類なんでしょうが、「とんかつ」とか「キャベツにソース」とか出してくるあたりに「くーみん、笑い取ろうと思ってるね?(笑)」と確信犯みを感じました。
ここで、去年の11月に京都で行われたウエクミ茶でのやりとりを引用してみましょう。
登壇者は、くーみんの他に、司会者、大阪音楽大学大学院の講師、松本先生(専門はミュージカル史)の3名です。
このとき話していたテーマは「ジェンダー理論」です。
男性タレントさんが急に女性性を打ち出し始めたりして、今やジェンダーフリー思想がかなり広まってきている昨今ですが、「男役はこうあるべき」「娘役はこうあるべき」とハッキリ分かれている宝塚においては、ジェンダー理論ってどうなの?っていう議論です。
意訳の部分もありますのでご了承くだされ。
松本先生
「娘役であるために、『必要以上に女性であろうとする』。それは舞台の上でももちろんそうですし、舞台を下りてる時でも、常に女性の役割をきっちり演じないといけない。そして娘役がそれをやめたら、男役が男役として成り立たない。この辺はどう思いますか?」
司会者
「歌舞伎の女形っていうのは古典の演目を演じているわけですから、内容的なジェンダーの問題とか、理想化された女性みたいな役柄は『まぁ古典だからね』ってことで目をつぶってもらえる感があるんですけど、宝塚は新作主義ですので、現代のジェンダー感っていうのはそれなりに受け止めないといけないってところがあると思うんですよね。これはウエクミさん、宝塚時代に『ジェンダー』ってことは意識しながら作品を創られていた、ってことはありますか?」
くーみん
「………いいえ(笑)。何も深くは考えてなかったですね(笑)そこを言い始めると成立しない部分も結構ある芸能ではあるかな、と思うんですが…昔に比べて思うのは、動画か何かで昔の映像を見た時に、例えばテレビ番組が宝塚を取材してて、楽屋とか舞台袖も映してるわけですね。そこで、いま公演を終えたばかりのトップスターが袖にはけてきて、演出家の先生に挨拶をするみたいな場面があって。ベルばら四天王みたいな、偉大なトップさんたちの時代ですね。その男役トップの人が袖にはけてきた瞬間に、男性演出家の先生に『いや~ん、先生見てはりましたん~~?いや~んありがとうございますぅ~わたし大丈夫でしたぁ~?いやぁ~んもう、先生見てはったんやぁ~ありがとうございますぅぅぅ~』って言って、すごい下手に出るんですよ。(場内爆笑)今のトップさんたちはもうちょっと偉そうなんですけど(場内大爆笑)(セリ美も鼻水出して吹き出す)。
でも、つまりそれだけ、男性の演出家の先生に、男性であるという、何かそれに対しての、ちょっとおばちゃん達特有のヘコヘコした、おばちゃんとかいってすみません…(笑)まさに、絵に描いたような日本における男女間のコミュニケーションになってて。あ、この当時は女性が主役の宝塚でも、男女である時点でこういうコミュニケーションになってしまうんだと思って。
さっきまで大きな舞台の真ん中で百獣の王みたいに振る舞っていて、トップ男役であるだけで誰よりも強いし、美しいし、偉い。そのトップさんの姿を見て、当時いろいろと男性中心の社会で抑圧されていた女性ファンたちは溜飲が下がる思いだったと思うんですよ。同じ女性という種族である人が、この空間の中でだけは、男が上がれないあの空間の中でだけは一番強い。それをファンは見て、それこそ原作でのオスカルの活躍を応援した当時の女性の気持ちと一緒だと思うんですね。
でもその舞台から一歩外に出るとそういう環境であるという。今は袖にはけてきた男役トップさんは、男性演出家だろうが私だろうが、「あ~先生見てたんだ~」みたいな、別に普通ですけどね(笑)。それを思うと、いまこの時代に女性が男性を演じるカタルシス(心の中に溜まってしまったネガティブな感情を解放し、浄化するという意味)っていうものがどの程度あるのかな?宝塚の魅力って別のものに変わってきてるなっていう感覚はありますね。女性が男役を演じるということで何か女性たちの欲求をかきたてるものがあって、だからこそ人気が続いてると思うんですけど、『女性だって!』という抑圧された思いをスターさんに投影する、という役割ではないような。」
くーみんからけっこう衝撃的な意見が出てましたけど、ここは今回のウエクミ茶でいちばんの爆笑どころでした。
レポ禁とは言われてなかったので書いちゃっても大丈夫だと思うんだけど…まぁあんまりいろんな人にバレませんように。
本当はもっともっとウエクミ茶のレポしようと思ってたんですがなかなか時間が取れず…このように小出しにしていけたらと思っています。
なんでここでこの話を持ってきたかというと、この話を聞いてセリ美は「宝塚の闇を見たなぁ」と思ったんですね。
結局、男性演出家にクネクネして取り入らないと偉くなれないの?可愛がってもらえないの?って。
宝塚に限らず、そりゃ世渡り上手のほうが会社の昇進には有利でしょう。
でもやっぱり、ファンとしては「上手い人、魅力ある人」にトップになってほしいわけですよ。
けど現実は植爺とかPとかのエライおっさんがたに「あの子、愛想良くてええやないか」と思われないといけなくてね。
娘役さんなんかは更に路線さんに気に入られないといけないわけですからね。
やっぱり相手役指名権ってのは間違いなく存在してますから。
キキちゃんも、巴里祭とDSで二度も指名したほど春乃さくらちゃんがお気に入りでやりやすかったから今回指名したのでしょうし。
歌舞伎でも、どれだけ太いタニマチさんを連れてくるかってことがすごく大事ですし、芸能においてはカネもコネも大事で、それらが何も無くて完全丸腰で只々歌えます踊れますだけでは成り上がっていかれないものとは分かっていますけどね。
そういう闇の部分もくーみんはきっと在団中に死ぬほど見てきたんしょうし、「なんでこの子を起用しないとあかんの?何もできんやん」っていう思いも間違いなくあったでしょう。
そういうネガティブな思いもこうして笑い話にしちゃうあっけらかんとしたところが作品にも表れていてセリ美は好きですってことが言いたかったわけです。
今回のオペラも、くだらん痴話げんかが発端となって人が死んだり、浮気だ不倫だDVだって、まーーー人間ってやつは本当にどうしようもないなって話なんですが、それをどうやって高尚な芸術に見せるかってのを、くーみん流にあの手この手で仕掛けてきて、相変わらずの
くーみん「お前ら、ついてこれるもんならついてこいや!」
ウエクミ信者「上等じゃゴルァァァァ!!」
という感じの格闘技のような作品でした。くーみん作品を観るときはいつも試合に臨むような気持ちですもん。
首からタオル掛けて腕ぐるぐるまわして、心なしか背後に丹下段平の気配感じますもん。
喧嘩上等じゃあああああ!!!って、舞台の新しい楽しみ方ですよね。
くーみん本人はまっっっったくそんなつもりないでしょうけども。
でも、高尚なオペラが観たくて劇場に来た人は1幕見て「……は?ナニコレ?」と思うようで、2幕観ずに帰っちゃう人もいたりしたようで…
実際、セリ美の隣にいた男性も2幕は帰ってきませんでした……
もったいないなあ~
1幕・2幕通してずっと舞台をウロウロしてるだけのホームレス役の人がいるんですが、なんとその2名のホームレスが終演後に出口でお見送りなんていうオモシロ演出もあったのになあ。
鍋とか缶の中には偽札が入っていて、帰っていくお客さんにお金を無心してました。
ほんとに入れてっちゃう人いたらどうしたんだろ!
そしてまた面白いのが、演者の皆さん(オペラ歌手は除く)(たぶん)私服なんですって!
それぞれに役柄に合った服を用意して、大阪ミナミの一般市民に扮していたそうです。
こういう「へぇ~!」っていう仕掛けをするのが演出家の発想として普通にとても面白いなと思いますね。
2階の客席も舞台として使ってみたり、原作のオペラの登場人物に合わせた役名に変えてたり。
例)パリアッチョ→巴里亜兆
トニオ→富男
カニオ→加美男
なんかパロディー感があって、「平たく言えば親子劇場やん!」と思いました。(違う)
扱うテーマはものすごくシリアスだったり悲劇なのに、そういうふざけてるところがとても好きです。
いつだって賛否両論、嵐を巻き起こす「おもしれえ女!」なくーみん、もう巴里へと旅立ったのでしょうか…
巴里で一体何を吸収して、どんなモンスターとなって帰国するのか大変に楽しみです。
こっちも凱旋試合にむけて仕上げておかないと!腕が鳴るぜ!!!
最近、運気が急降下…美味しいもの食べてたくさん寝て猫撫でてゆっくり過ごします。


続き書くの忘れてた…
一応そのまま載せてみます。
すんげーいろんな〆切が真後ろに迫って来てて頭おかしくなりそうなので無駄な導入話はせずに本題に入ります。
行ってきましたよ、くーみんオペラ。
留学する前の最後の演出になるのかしらねえ?
さすが文化庁主催、予算が潤沢なようでチケット代が安くて大変助かりました。
オギーなきあと、「この人の作品なら絶対間違いない」と思える演出家が入ってきてくださり、ああこれで宝塚もしばらくは安泰ね…なんて思っていたら、ね。
宝塚の稼ぎ頭がいなくなってしまったのはとても残念だったけど、退団後のくーみんを見てるともう「そうよね、こんな人が宝塚にとどまっているわけがない」と感じますね。
「推し活」に対するネガティブな意見をくーみんが述べていて軽く炎上していましたけど、別に推し活を否定したわけじゃないと思うんですよね。
推し活も芸術も、両方楽しめる感性を持ってると、もっと価値観が変わってくるから推し活だけで人生終わらせちゃもったいないよ、みたいなことだったのかもしれないですね。
あらゆる生物の中でこんなに複雑で面白い生き物は少なくともこの地球上にはいないんだから、いいところも悪いところも「人間」「文化」ってものを楽しもうよ!みたいな感覚なんですかね。
ストーカー殺人とかも最近博多で起きましたが、ああいうのも本当に不思議な感情ですよね。好きなのに殺しちゃうっていうのが。まぁ激情とかもそうですけどね。
ホセがカルメンを殺すってそういうことですもんね。
でもそれもしっかり犯人の心情を追求してみると、女性のことが好きなのではなく、「自分が好き」だったんだなってことが多くあると思います。
自己肯定感がうまく育たず、好みの外見や性格の人に好いてもらえないと「なんで好いてくれないんだ!!」って許せなくなるとか。
でもじゃあ正常な「好き」って何?って訊かれればそれもよく分からない感情ですしね。
少なくともセリ美の感覚的には「好き」ってよく分からない感情です。
……え?ミズさま好きじゃないのかって?
ミズさまに対する感情は「憧れ」「尊敬」です。ミズさまに個人的に会いたいかと言われれば、全く会いたくないですしね。
あくまで遠くから眺めていたいので、この感情は「好き」とは違う気がします。

……え?じゃあ息子好きじゃないのかって?
息子に対する感情は「芸術鑑賞」と似てますね。
特にタカラジェンヌでいる間って人となりは分かりませんし、岡山出身の詩織ちゃん個人のことを好きではなく、あくまで和希そらという舞台人を観ると大変に満足した気持ちになる、というところでしょうか。
………え?好きな友達とかいないのかって?
気が合うな~とか、居心地のいい人だな~とか、尊敬するな~とか、頭のいい人だな~とか、自由な発想だな~とか、そういう具体的な感想は持ちますが、それが「好き」かと言われればよく分からない、という感じでしょうか。
なぜなら、セリ美には「寂しい」という感情がほとんど無いからです。
セリ美はたぶん完全引きこもりで誰とも会わなくても「寂しいな、誰かと会いたいな、話したいな」と思わないんですよねえ。
気の合うお友達と会えばもちろん「楽しかったな~!」とは思うんですが、会わなくても大丈夫です。寂しいという感情が無いので。
じゃあ忍は?って?
忍と暮らし始めてからまだ4か月ほどなので感情が確定していませんが、きっとこれが初めての「家族愛」ってやつなのかなあ?とは思っています。
でも「ふわふわしててあったかくて可愛いなあ」「幸せにしてあげたいなあ」という感情って、イコール好き、なんでしょうか?
よく分からないです。
「好きという感情が分からない」というこれは、セリ美が家族から無償の愛を注がれるという体験をしていないことに起因すると思っていますが、でもセリ美と似たような環境で育った人がみんなこうなるかと言えば、セリ美のパターンはすごくレアなんだと思います。
むしろ普通の人よりもすごく寂しさを抱えた人間に成長してしまって、平均的な愛情じゃ足りない!!っていろいろ暴走する人のほうがほとんどなのかなと思います。
ま、そんな「愛情の枯渇度」も人それぞれ値が違うのもとても面白いですよね。
そしてネットというものを使って気軽にその場で他人と繋がれたり褒められたりすることができるようになった現代では、その「寂しい」をみんな手軽に埋めようとSNS天国になっているわけですね。
「寂しい」をあまり知らないセリ美は、愛情の枯渇度が可視化されているSNSを覗くのがあんまり好きではないんですが、この仕事柄、見なくてはいけないのでなかなか大変です。
「寂しい~~~~!!!」のうめき声の大合唱がスマホ画面やパソコン画面から溢れてくるので、なんかすごく苦しくなるんですよね。
リア友さんのアカウントにしても、普段会ってるときはそういう感じしないのに、SNSでは割と人格が変わっちゃってる様子を見るのもしんどいしね。
そういう、「人間って面白いな~~」っていうアンテナがくーみんはすごく敏感で、
↑ここまで下書きに残ってました。
ここから先、何を書こうとしたんでしょうねえ…
やっぱり観劇レポって新鮮なうちに書かないとダメだから、今となっては「相変わらずすげーものを観た」くらいの感想しか出てきません…
あ、今回のオペラのポスターに殴り書きしてあった「みんなさみしいねん」っていうのに繋げようと思ってたんだ!
結局、人間が悪いことするのって、元を辿っていくとみんな「さみしかった」に繋がると思うんですよね。
そういう人間の醜さの根源となっている「寂しさ」を見せた作品だったな、と思います。
皆さん、一条ゆかり先生の漫画って何か読んだことあります?
一条ゆかり先生ってすごくリアリストっていうか、漫画にありがちな綺麗ごとの世界は描かずに、「憎まれっ子世にはばかる」を割とメインに描いてるなってイメージなんですね。
結局、腹黒くて嫌な奴が最後に勝つ、みたいな、神も仏も無いような物語を。
でもそれってやっぱり真実だよなと思うんです。
図々しければ図々しいほど勝ちだし、わがままであればあるほど得をします。
逆に、人に優しくすればするほどつけこまれますし、人に譲れば譲るほど損をします。
人間世界ってそういう風にできています、残念だけど。
そこで悪の道に進むのかそうでないかは、各々の正義感とか美徳観によって変わってくるんでしょうけど。
セリ美は優しい人間でいたいので、たとえ損をしても構わない、とけっこう頑張って生きてます。
それにつけこまれて利用されることがとても多くて苦しいけど、図々しくて腹黒い人間になるよりよっぽどいいから。
くーみんも、一条ゆかり先生みたいなものを創るタイプだなと思いました。
宝塚はやっぱり「正義は勝つ」が大前提ですので、きっとくーみんもそれに合わせて、ヅカファンがいかにも好みそうなものを創っていたのでしょう。
そしてその縛りから解放された今は、一条ゆかり先生と同じ「結局、憎まれっ子は世にはばかるんだよ」「みんなさみしいねん」を突き付けてきますし、人間ってこんなにも醜くなれるような生き物なんですよって見せつけてくるんですね。
それがとても苦しくもあるけど、くーみんのすごいところは、それを笑い飛ばそうとしてるところなんですよね。
今回のオペラでも、大阪ミナミのチンピラ(日野さん)が出てきて、「ワシすごいやろ!どや!」と地域の人たちにオラオラして幅利かせてるわけですが、セットに映し出される字幕に
「日野さん、さすがやわぁ~」
「知らなかったわぁ~」
「すごいなぁ!」
「センスええわぁ~」
「そうなんやねえ!」
(褒めとけ褒めとけ)
(魔法の言葉、さしすせそや!)
とか出てくるんですね(笑)
世界的なオペラ歌手が歌ってる最中なのに!
ゴミみたいな、っしょーーーもないチンピラと、それにゴマすりながらじゃないと生きていけないコミュニティの人々を崇高なオペラと置き換えてるわけですから、そりゃー斬新ですわ。
結局は乱暴者が勝ち、悪くてずるいことしてる奴が得をする、っていうこの世の理不尽な真実をジョークにしちゃってるところが、セリ美がくーみんを「好きだな~」と思うところのひとつです。
真面目に一生懸命働いてる人がなけなしのお金をがっぽり徴税されて、働かずに毎日パチンコ打ってる奴がうまいことやって生活保護もらって遊んで暮らしてる、みたいなこの世の理不尽ですよね。
そういうのを「ははは!ばからし!」って笑い飛ばすところがくーみん作品にはあるように思います。
それは前作の『バイオーム』でもそうでした。ものすごいシリアスなお話なんですけどね。
「発達障害を持っている息子を施設に預けようっていう深刻な話を、ランチでとんかつ食べながら!キャベツにソースかけながら!あなたは私にしてきたのよ!あははははは!!」っておハナさまは爆笑しながら言ってました。
いやこれはもうジョークとかじゃなくてほぼ狂ってるから笑っちゃってる部類なんでしょうが、「とんかつ」とか「キャベツにソース」とか出してくるあたりに「くーみん、笑い取ろうと思ってるね?(笑)」と確信犯みを感じました。
ここで、去年の11月に京都で行われたウエクミ茶でのやりとりを引用してみましょう。
登壇者は、くーみんの他に、司会者、大阪音楽大学大学院の講師、松本先生(専門はミュージカル史)の3名です。
このとき話していたテーマは「ジェンダー理論」です。
男性タレントさんが急に女性性を打ち出し始めたりして、今やジェンダーフリー思想がかなり広まってきている昨今ですが、「男役はこうあるべき」「娘役はこうあるべき」とハッキリ分かれている宝塚においては、ジェンダー理論ってどうなの?っていう議論です。
意訳の部分もありますのでご了承くだされ。
松本先生
「娘役であるために、『必要以上に女性であろうとする』。それは舞台の上でももちろんそうですし、舞台を下りてる時でも、常に女性の役割をきっちり演じないといけない。そして娘役がそれをやめたら、男役が男役として成り立たない。この辺はどう思いますか?」
司会者
「歌舞伎の女形っていうのは古典の演目を演じているわけですから、内容的なジェンダーの問題とか、理想化された女性みたいな役柄は『まぁ古典だからね』ってことで目をつぶってもらえる感があるんですけど、宝塚は新作主義ですので、現代のジェンダー感っていうのはそれなりに受け止めないといけないってところがあると思うんですよね。これはウエクミさん、宝塚時代に『ジェンダー』ってことは意識しながら作品を創られていた、ってことはありますか?」
くーみん
「………いいえ(笑)。何も深くは考えてなかったですね(笑)そこを言い始めると成立しない部分も結構ある芸能ではあるかな、と思うんですが…昔に比べて思うのは、動画か何かで昔の映像を見た時に、例えばテレビ番組が宝塚を取材してて、楽屋とか舞台袖も映してるわけですね。そこで、いま公演を終えたばかりのトップスターが袖にはけてきて、演出家の先生に挨拶をするみたいな場面があって。ベルばら四天王みたいな、偉大なトップさんたちの時代ですね。その男役トップの人が袖にはけてきた瞬間に、男性演出家の先生に『いや~ん、先生見てはりましたん~~?いや~んありがとうございますぅ~わたし大丈夫でしたぁ~?いやぁ~んもう、先生見てはったんやぁ~ありがとうございますぅぅぅ~』って言って、すごい下手に出るんですよ。(場内爆笑)今のトップさんたちはもうちょっと偉そうなんですけど(場内大爆笑)(セリ美も鼻水出して吹き出す)。
でも、つまりそれだけ、男性の演出家の先生に、男性であるという、何かそれに対しての、ちょっとおばちゃん達特有のヘコヘコした、おばちゃんとかいってすみません…(笑)まさに、絵に描いたような日本における男女間のコミュニケーションになってて。あ、この当時は女性が主役の宝塚でも、男女である時点でこういうコミュニケーションになってしまうんだと思って。
さっきまで大きな舞台の真ん中で百獣の王みたいに振る舞っていて、トップ男役であるだけで誰よりも強いし、美しいし、偉い。そのトップさんの姿を見て、当時いろいろと男性中心の社会で抑圧されていた女性ファンたちは溜飲が下がる思いだったと思うんですよ。同じ女性という種族である人が、この空間の中でだけは、男が上がれないあの空間の中でだけは一番強い。それをファンは見て、それこそ原作でのオスカルの活躍を応援した当時の女性の気持ちと一緒だと思うんですね。
でもその舞台から一歩外に出るとそういう環境であるという。今は袖にはけてきた男役トップさんは、男性演出家だろうが私だろうが、「あ~先生見てたんだ~」みたいな、別に普通ですけどね(笑)。それを思うと、いまこの時代に女性が男性を演じるカタルシス(心の中に溜まってしまったネガティブな感情を解放し、浄化するという意味)っていうものがどの程度あるのかな?宝塚の魅力って別のものに変わってきてるなっていう感覚はありますね。女性が男役を演じるということで何か女性たちの欲求をかきたてるものがあって、だからこそ人気が続いてると思うんですけど、『女性だって!』という抑圧された思いをスターさんに投影する、という役割ではないような。」
くーみんからけっこう衝撃的な意見が出てましたけど、ここは今回のウエクミ茶でいちばんの爆笑どころでした。
レポ禁とは言われてなかったので書いちゃっても大丈夫だと思うんだけど…まぁあんまりいろんな人にバレませんように。
本当はもっともっとウエクミ茶のレポしようと思ってたんですがなかなか時間が取れず…このように小出しにしていけたらと思っています。
なんでここでこの話を持ってきたかというと、この話を聞いてセリ美は「宝塚の闇を見たなぁ」と思ったんですね。
結局、男性演出家にクネクネして取り入らないと偉くなれないの?可愛がってもらえないの?って。
宝塚に限らず、そりゃ世渡り上手のほうが会社の昇進には有利でしょう。
でもやっぱり、ファンとしては「上手い人、魅力ある人」にトップになってほしいわけですよ。
けど現実は植爺とかPとかのエライおっさんがたに「あの子、愛想良くてええやないか」と思われないといけなくてね。
娘役さんなんかは更に路線さんに気に入られないといけないわけですからね。
やっぱり相手役指名権ってのは間違いなく存在してますから。
キキちゃんも、巴里祭とDSで二度も指名したほど春乃さくらちゃんがお気に入りでやりやすかったから今回指名したのでしょうし。
歌舞伎でも、どれだけ太いタニマチさんを連れてくるかってことがすごく大事ですし、芸能においてはカネもコネも大事で、それらが何も無くて完全丸腰で只々歌えます踊れますだけでは成り上がっていかれないものとは分かっていますけどね。
そういう闇の部分もくーみんはきっと在団中に死ぬほど見てきたんしょうし、「なんでこの子を起用しないとあかんの?何もできんやん」っていう思いも間違いなくあったでしょう。
そういうネガティブな思いもこうして笑い話にしちゃうあっけらかんとしたところが作品にも表れていてセリ美は好きですってことが言いたかったわけです。
今回のオペラも、くだらん痴話げんかが発端となって人が死んだり、浮気だ不倫だDVだって、まーーー人間ってやつは本当にどうしようもないなって話なんですが、それをどうやって高尚な芸術に見せるかってのを、くーみん流にあの手この手で仕掛けてきて、相変わらずの
くーみん「お前ら、ついてこれるもんならついてこいや!」
ウエクミ信者「上等じゃゴルァァァァ!!」
という感じの格闘技のような作品でした。くーみん作品を観るときはいつも試合に臨むような気持ちですもん。
首からタオル掛けて腕ぐるぐるまわして、心なしか背後に丹下段平の気配感じますもん。
喧嘩上等じゃあああああ!!!って、舞台の新しい楽しみ方ですよね。
くーみん本人はまっっっったくそんなつもりないでしょうけども。
でも、高尚なオペラが観たくて劇場に来た人は1幕見て「……は?ナニコレ?」と思うようで、2幕観ずに帰っちゃう人もいたりしたようで…
実際、セリ美の隣にいた男性も2幕は帰ってきませんでした……
もったいないなあ~
1幕・2幕通してずっと舞台をウロウロしてるだけのホームレス役の人がいるんですが、なんとその2名のホームレスが終演後に出口でお見送りなんていうオモシロ演出もあったのになあ。
鍋とか缶の中には偽札が入っていて、帰っていくお客さんにお金を無心してました。
ほんとに入れてっちゃう人いたらどうしたんだろ!
そしてまた面白いのが、演者の皆さん(オペラ歌手は除く)(たぶん)私服なんですって!
それぞれに役柄に合った服を用意して、大阪ミナミの一般市民に扮していたそうです。
こういう「へぇ~!」っていう仕掛けをするのが演出家の発想として普通にとても面白いなと思いますね。
2階の客席も舞台として使ってみたり、原作のオペラの登場人物に合わせた役名に変えてたり。
例)パリアッチョ→巴里亜兆
トニオ→富男
カニオ→加美男
なんかパロディー感があって、「平たく言えば親子劇場やん!」と思いました。(違う)
扱うテーマはものすごくシリアスだったり悲劇なのに、そういうふざけてるところがとても好きです。
いつだって賛否両論、嵐を巻き起こす「おもしれえ女!」なくーみん、もう巴里へと旅立ったのでしょうか…
巴里で一体何を吸収して、どんなモンスターとなって帰国するのか大変に楽しみです。
こっちも凱旋試合にむけて仕上げておかないと!腕が鳴るぜ!!!
最近、運気が急降下…美味しいもの食べてたくさん寝て猫撫でてゆっくり過ごします。


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