ボン乃セリ美と申します。実はまだ生きてます。かろうじて。
ブログ放置してもう5年くらい経ったかな……と思って今日ログインしたら意外にもまだ1年経ってなくてちょっとびっくり。
今こそファンが動くべき、という衝動に駆られて、現役生に宛てるメッセージを皆さんから募集し、劇団への意見書を取りまとめ、あらゆるツテを使って関係者の皆様にお届けするという一世一代の企画を遂行して、燃え尽き症候群になったことがいちばん大きかったかな。
95周年付近の元トップさんやセリ美がミズさまの次に敬愛している元2番手さんなどに直接手渡しできたことや、宙組生の皆さんからも「受け取りました、本当にありがとうございます」と伝言が届いたこと、劇団の人からも「意見書、大変役に立っています」と言っていただけたこと、心から安堵しました。
そして満足げに微笑みながら燃えカスになっていったという流れですね。
来る日も来る日も印刷&製本&発送&支援金の確認&支援者の方々への返礼品作成&送付を繰り返しながら、自分の仕事も並行して進めていくのはなかなかの過重労働ではありましたが、それよりも使命感や「いま助けるからな!待ってろ!」という海猿感の気持ちのほうが勝っていて、精神的にはむしろランナーズハイみたいな感じでしたけどね。
でもそこから生まれた貴重なご縁もたくさんあって、人生って本当に分からないものだし、行動力次第で人生はどんどん変えられると実感した出来事でしたね。
もちろん嫌なこともあったけど。
こういうときに取る行動で人の本性って見えるんだな~と思う出来事もチラホラありました。オセローじゃないけど、人間って本当に嫉妬に翻弄されるんですねえ。
でもセリ美がハガネの精神力の持ち主であり、どこかで非難をされているらしいと聞いても「物陰から石投げることしかできない陰湿で卑怯な奴は来世ハエで決定だな」とか気軽にスルーできたことも大きかったように思います。
自殺率がトップレベルである今の日本で、このようになんとも逞しく生き抜いていけるこの体力は、地獄をサバイブしてきたバックグラウンドのおかげです。ある意味感謝ですな。
地獄といえば、母が先日「大腸がんが2か所見つかって手術予定」と人づてで私にほのめかしてきまして、「そうとでも言えば私が『お母さん!!!死なないで!!!』と泣いて助けに行くとでも思ったか?クソが!!!!!」という気持ちですいま。
散々子供をサンドバッグにして利用し尽くしてきたくせに、弱ってきたら「助けて」「大切にして」って、本当に毒親あるある過ぎて笑うわ。
でもね、先日観た映画『国宝』でも、(以下ネタバレなのでこれから観る方は読み飛ばし推奨)(矢印内を飛ばしてね)
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ケンワタナベ演じる2代目半二郎が喀血して死ぬ直前に名を呼んだのは、自分の名跡を継いでくれた喜久雄ではなくて、家を捨てた息子の名前でね。
それを聞いて喜久雄は「あなたを一身に助けた自分ではなく、父を捨てた愚息なんですね」と異常な執着心を芽生えさせていくわけです。
そして、セリ美の祖父も死の間際に名前を呼んだのは、最後まで祖父のお世話をしたセリ美母ではなく、根無し草のように生きていたセリ美叔母(母の妹)の名だったという実話がありましてね。
親って生き物は、最後まで気がかりになっていた出来損ないの子供の名を呼んで死ぬってのがセオリーなんですかねえ。
となると、セリ美母も、母大好きマザコン兄よりも、一方的に縁を切られたセリ美の名を最期まで呼んで死に絶えていくんですかね。
ざまあみろ!!!!
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はい、ネタバレはここまででございます。
まぁそんな生き様なので、大抵のことはかすり傷にもならんハガネのメンタルなのであります。
宝塚観劇もですね、息子もさっさと性転換を済ませて今や縦横無尽に活躍しておりますし、贔屓が不在のいまは月1くらいの観劇ですかねえ。
「観ておきたい」と思うのはちなつさん、ありちゃん、ずんちゃんですかね。下級生はだいぶ追いつかなくなっちゃったな~~
ずっと客席側だった自分が、いま生まれて初めてプレイヤー側という立場に挑戦していますが(エレキギター)、そっちの新規開拓に時間と予算をまわしてるところも多いですね。
仕事のほうも有難いことに「ぜひあなたに書いてほしい」というクライアントさんがずいぶん多くいらっしゃいまして、もうご新規さんはお断りしているような状況でして、このChat GPT時代に忙しくやっております。
なにより、めちゃくちゃ大手の出版社さんと仕事ができているのは大変に光栄なことです。
それでもやっぱり宝塚という文化を愛してるし、土地も愛してるし、一生見守っていくんだろうなとは思いますね。
さて、近況報告はこんなところで、『国宝』を観たからか、急にくーみんの『寂しさにまつわる宴会』のことを思い出しました。同じ、「舞台の上で生きて、死ぬ者」が主人公になっているということでね。
くーみん退団後も追いかけてるヅカファンってもうそれほど多くないように思いますが、この『寂しさに~』を観に行ったヅカファンはその中でもさらに少人数だったように思います。
なにせ「観劇」と呼ぶのもちょっと違うような、あまりにもチャレンジングな演目でした。
退団後のくーみん作品はどうも感想を述べにくいという特徴がありましてねえ。
たぶん「観たことのないもの」だからだと思うんですが。
かといって、観たことないものだからといって、「これは革命だ!!!!こんなものは見たことがない!!!」というわけでもないんですよねえ……「ん…?なんだろうコレ……」という感覚かなあ。別に不味くないけど正体不明の肉を口に放り込まれたような…
「これは一体何なんだろう、何を目指しているのだろう、何が言いたいんだろう」と只々悶々として帰路につく、みたいな感覚です毎度毎度。
体中を白塗りにした男女がくんずほぐれつ謎のタコ踊りを披露するコンテンポラリーダンスって、あるじゃないですか。あれに近いような…「あれ、一体何なんだ?何かを言いたいんだろうけど全然わからん。」みたいな。
コンテンポラリーにもごく一部、「これは名作!」と思えるものもあるんですけどね。先日の咲コンでのコンテ、ものすごく良かった。
でも基本的には「これをダンスって呼ぶのは…うーん」と思うことがほとんどです。
いや、退団後くーみん作品は「全然わからん」ってこともないんだよな……もちろん物語として成立してるし、起承転結もある。
でも、『寂しさに~』で言えば「なんでこのストーリーをぶつ切りにして、合間合間にくーみんのフリートークを挟むんだ?」とか、「なんでこれを銭湯でやるの?」とか、全然わからんのですよ。
タイトル通り、「寂しさにまつわる」んです、すべてが。
人間が何でこんなに寂しい生き物なのか、寂しさがついにどんな悪さをするようになるのかを、物語に於いても表現していくし、合間合間に挟まるくーみんのフリートークでもくーみんなりの検証を語ったりするんですね。その検証方法があまりに大胆で体張りすぎてて客席からサーーーーっという引き潮の音が聞こえるくらい皆さん引いてたんですが。
で、まぁ公演もとっくに終わったんで普通にネタバレ書きますけど、主人公の女性二人が、社会から弾き飛ばされてホームレスになって、いろいろ発狂していって、片方の女が片方の女を殺して、生き残ったほうの女は殺した女の寂しさを食ってやって大衆演劇界の実力者として生き抜いていく、というラストなわけですが。
「こんな救いようのない悲劇をなんで銭湯でやるの?」とかいろいろ疑問を挙げたらキリがないんですが、私がいちばん言いたいのは、「くーみんさあ、なんでそんなにあなた自身が寂しいの??」ってことです。
そもそもくーみんは「悲劇を書かせたら優勝」だったじゃないですか。
悲劇なのにとてつもなく美しくて、「人間って悲しいけど美しいなあ、いい物語だったなあ」ってしみじみ、ジーーーンとしながら帰路についたじゃないですか。
でも退団後くーみんの書く悲劇って救いようが無くて、人間が非常に醜く見えるんですよねえ。欲望丸出しに生きて、ゆえに自滅していく、っていう。
扱う人種も、やけにホームレスとか同和地区ばっかりだし。
私は性善説論者じゃないし、むしろ真逆だからこそ人間不信なわけですが、そんな私ですら「そんな救いようのない……じゃあもう人類滅亡したほうが……」と絶望して帰る事態になるんですわ。
くーみんは「これが人間ってもんよ!それでも逞しく生きていく私たちは、尊い!!」と思ってこういう作品を書いているのだとしたら、それは間違いだと思う。醜い生き方をしてる人は自分に原因があるし、美しい生き方をしてる人は努力をしてるから美しい。
だってさ、くーみんは間近でタカラジェンヌという妖精を何百人も見てきたわけでしょう?
彼女たちももちろん「同期を押しのけてトップスターになりたい」とか、「そのためには使えるものは全部使ってやる」とか、「実力もないくせに実家の力で推されやがって」とか「Pや演出家に媚売るな」とか、ドロドロしたものはもちろん持ってますよ。
でも、彼女たちはセリ美と違って「シングルマザーである母から虐待を受けて育ちました」とか、「家がめちゃくちゃ貧乏で生活保護受給してます」とか、「近い身内に犯罪者がいます」とか「小3から登校拒否です」とか「母親は風俗嬢です」とかじゃないわけです。
いろいろ噂はありますが、一応表向きではちゃんとした教育を受けたまともなお嬢さんたちなわけで、中には一生「家事手伝い」として遊んで生きていったって贅沢できるお嬢様もいるのに、好き好んであの厳しい道をわざわざ選んで、軍隊のような予科を過ごし、劇団に入ったらまたペーペーからやり直しで、劇団ジジイたちのいろんな思惑に振り回されて路線に乗せられたり降ろされたり、やっと会立てできたと思ったら代表さんと全然合わなくてトラブル続きだったり、太客から文句言われたり、それでも毎日「お客様のために」と汗と涙でドロドロになりながら必死にお稽古場や舞台に立ってるわけです。プライベートタイムなんかほぼ皆無で。
そしてくーみんも、彼女たちに敬意を持っていると公言してるわけです。
そんな美しい生き様をたくさん見てきたくーみんが、なぜあんなに醜い人間や世界を描きたがるのかが、分からない。
ホームレスだってそれなりに事情があってそうしているのだろうけど、自分がその気になれば何度でも、いつからでもそこから脱却できるのに、しないのは自分自身なわけで、同情の余地はない。
セリ美だってひとつ間違えばトー横キッズになっておクスリ漬けになったり犯罪者になっていた可能性は非常に高かった。
でも自分の理性でそっちに流されずに踏ん張って闘ったから、今こうしてノーストレスで物書きができて、忍と小競り合いができる幸せな日々が送れている。すべては自分次第。
ほぼ無法地帯と化している同和地区に犯罪が多いのも当然だし、そこから脱却したいと思えばどうとでもなるのに、そこで虚ろな目をする人生を選んでいるのは自分自身なわけで。
そんな彼らがどう生きてるのか、どう終わっていくのかをくーみんはやたらに描こうとしていて、「なぜなら彼らは寂しいから」と言うわけですよ。
そして「その寂しさの根源はどこにあるのか」と問うてくるんですよ。
自分以外のことは分からないのでセリ美をサンプルにするしかないけど、
「寂しいも寂しくないも、全部、ぜーーーーーーーんぶ、自分次第じゃ!!!!!」
としか言えないです、もう。
普通に考えたら、セリ美が生きてきた環境なんて「寂しい」の塊ですよ。
そのカケラはいまだにいろんなところに落ちていて、この前は「運動会って今もお昼ご飯は家族のところに行ってレジャーシート敷いて食べるの?」と質問された子供が「普通に教室で給食だよ!」と答えていたテレビを見ていて、セリ美は「……え?昔の運動会って家族が見に来てお昼ご飯は家族と一緒に食べるんだっけ……?」と驚いたりしてね。
親がセリ美の学校に運動会を見に来た経験もなければ、親が作ってくれたお弁当を一緒に食べた経験も無いもんでね。
ほぼ消し去った記憶を辿っていくと、確か仲良しの友達のお母さんが「一緒に食べよ」と言ってくれたり、たまに来た祖母がめちゃくちゃまずくて見栄えの悪いお弁当(祖母は料理ができない)を広げてたな、とか思い出しましたが。
料理がヘタでも、ちゃんと愛情があれば子供は分かります。
お弁当箱でもなく、使い古して黄ばんだタッパーだった。お金が無いわけじゃなかったんだから、料理がヘタでもせめて子供が喜ぶようなお弁当箱くらい買ったら?と今は思いますよね。
タッパー全体から「面倒くさい」が漂ってるお弁当だったなあ。
みんな可愛くてちゃんとしたお弁当なのに、祖母が作ったお弁当は汚くて恥ずかしくて、隠しながら食べた記憶がほんのり残っています。
両親がいないこの子が可哀想とか、授業参観も運動会も水泳大会も親が見に来てくれないこの子が可哀想、といった気遣いを祖父母から感じたことは一度も無かった。
セリ美は運動神経抜群だったので、台東区の陸上大会も水泳大会もポートボール大会も、全部代表に選ばれてたのに、だーーーれも見に来てはくれなかった。無関心。
その後の受験も就職も、ぜーーーーんぶ無関心。
でも、むしゃくしゃしてるときは「ちょうどいいサンドバッグあったわ」と殴る。
とか、その祖母がいつしか脳梗塞で倒れて動きも喋りも不自由になってたなあ、なんて思い出していくと、脳梗塞でぶっ倒れた時に、祖父や母は「いま店が忙しいのになに倒れてんだ!」と(セリ美の実家は文房具店)祖母をそのままにして放置、そのうち祖母が失禁を始めてしまったようでそこでようやく救急車を呼んだら「脳梗塞」とわかり、すぐに救急車を呼んでいれば障がい者にならずに済んだのに、そのエピソードトークを母はセリ美に「そんなこともあったな~」くらいのトーンで話してきたりとか。
確かに、セリ美がてんかんを発症した時もなぜか「こんな忙しい時になにをお前は病気になってんだ!!!」ってキレられたな~。それなのに自分がガンになったら「助けて~」とほのめかしてくる。
自分の怠慢で親を障がい者にしたくせに、それを反省も自戒もせずに娘に「そういえばさ~」のテンションで話して聞かせるような親なんだよな~
トー横キッズまっしぐらだったわ。危ない危ない。
そんな素敵な思い出いっぱいのセリ美が、くーみんのように「私ってなんでこんなに寂しいんだろう」「人間って寂しいから思うように生きられないんだよな」って思うならまだしも、一応京大出てるくーみんはそれなりに一般的な家庭だったろうし、劇団に入って美しく生きる妖精たちをたくさん見てきたのに、何をそんなにカオナシみたいに「サミシイ…サミシイ……」って言ってるの?!意味わからん!!!!
というのが、退団後くーみんの作品を観るたびに思うこと、かな。
「寂しいも寂しくないも、全部、ぜーーーーーーーんぶ、自分次第じゃ!!!!!」
もう、これに尽きます。
セリ美はいま、「寂しい」と思う瞬間がほぼ無い。とうの昔にそんな要らぬ感情は捨て去ったというのもあるんだろうし、寂しくないようにするためには何をすればいいか、自分が「寂しい」と感じるポイントがどこにあるのか、そう感じた時に何をすればいいのかを研究し尽くしていれば、寂しいなんて思うことはほぼ無い。
「人間、シリアスになったらおしまい。楽しんでいこうぜ!」ってのがセリ美のモットーでもあるしね。
だから、くーみんが作品を通して「サミシイ、サミシイ」と言うたびに「何を言っているんだ?!?!自分次第でどうにでもなるわ!!!!」とモヤモヤする。
それがまず最初に来る感情。
それでも、誰も見たことのない手法に体当たりする姿勢は「さすがBADDYを作った女、ロック魂やで…」とも思う。
そして、最近のくーみんの活動を見ると、なんか「自然と一体になる」みたいなヨガ的なワークショップみたいなのを開催していて宗教みを感じたり、「フランス芸術にかぶれている」と感じる部分もある。
やっぱり私は下北沢でやってるような自己満芝居は嫌いだし、「人間とは」と考えさせようとしてくる説教くさい作品も嫌い。白塗りのタコ踊りを「これぞダンスです」と言われても、私はもっと分かりやすくかっこよくて美しいものが見たい。
かといって、最近のダンスブームもあまり好みではないんですが。日本も韓国もどのグループもみんな同じで…。「キレッキレこそ正義」みたいな風潮が良くない気がするんですよね。
エンタメと芸術の境目って難しいけど、私はやっぱりエンタメが好きです。
豪華な衣装でかっこいい振り付けを揃って踊ってくれるレビューが好きだし、主人公が死ぬほどかっこいい宝塚作品が好きです。
くーみんが作っているのは…エンタメではない、かな。哲学?
それでも、視線の端で追ってしまうのがくーみんの存在の強烈さなんだよなあ。
きっと、「分かりやすくて大衆的で、女性がみんなきゃあきゃあ言うようなやつ、作ってよ」と言われれば「はいはい」とくーみんなら今でもササっと名作を作ってくれるんだろう。
ピカソが、「そういうの描いてよ」と言われれば写実的なちゃんとした絵画が描けるように。
でも「そんなの、つまんないじゃん」と唯我独尊で地の果てまでエンジンふかしてぶっ飛ばしてしまうのが、くーみんなんだろう。
ご本人曰く、全然儲けなんて出てないらしい。
なんかいろんな演劇人と一緒にシェアハウスみたいなところに住んでるらしいし(現在もなのかは不明)、セリ美と同年代でそこまでの情熱を発してるのがすごい。
もうセリ美は老後に向けてお金貯めておきたいし、快適な生活空間で自由気ままに暮らしたいし、ご飯が美味しくて安全な日本からもう出たくない。
日本とフランスを行き来して、フランスではそれなりにアジア人差別に遭って、赤字の作品ばっかり興行して、「サミシイ、サミシイ」って言い続けながらそれをガソリンにして走り続けてるそのロックな生き方は、本当にすごいと思う。
今後もくーみん作品を観続けるかはわからないけど、傾奇者のようなくーみんの生き様を見守り続けたいな、とは思います。
『寂しさに~』に関する具体的な感想・レポというよりは「くーみんってなんやねん」みたいな記事になりましたね。
出演されていた2人の女優さんは、かなりの技量でした。
くーみんも天才、演者も実力者だからこそ、「もったいない」って気持ちが出ちゃったかな、セリ美の中に。
ああそうだ、書き忘れてた。
くーみんは「客席参加型」にしたかったようで、上演前に「エキストラ募集します!どなたかやってみませんかー?」と呼びかけがあり、誰も挙手せずにシーーーン……としてたので、セリ美がなんと立候補!!!
くーみんは「おお!!」とあの沈黙の中に挙手したセリ美の勇気を褒めたたえるような反応を見せてくれまして。
そりゃセリ美だって客席でゆったり観ていたかったけど、くーみんから演技指導を受けられる機会なんてもう二度と無くない?!?!と思ったら、やるしかない!!と。
観客が数百人とかいたら嫌だけど、30人程度だったので。
まぁセリ美茶で多少度胸がついたのもあったし。
そしてステージに上がるよう言われて、舞台袖に捌けてくーみんから演技指導。
内容は、くーみん扮する大衆演劇のスターが終演後にお見送りをする場面があるから、そこでくーみんに対して「きゃああああ!ファンなんですーー!」みたいな演技をして通り過ぎてほしい、と。
…………え?ファンの役????
そんなん、40年くらいやってますけど?????
………本気、出しちゃいますよ…?
と腹は決まった。
そして、その場面がやってきた。
先にスタッフさんがお手本としてファン役をやりますので、そのあとに続いて出てください、と段取り通りに進む。
くーみんの前にきたセリ美は、「きゃあああ!ほぼ毎日来てますけど、去っていく背中が今日も一段と素敵でしたーー!!握手してもらってもいいですかああああ」と演技とは思えぬ迫真のアドリブを繰り出したセリ美。
差し出されたくーみんの手は非常に冷たかった。冷え性。
『寂しさにまつわる宴会』という作品に確実に爪痕を残したな……カテコに呼んでくれても、いいんだぜ…?客席に投げキッス、するぜ…?と異様な達成感を得て自分の席に戻りました。
残念ながらカテコには呼んでもらえなかったけど、終演して帰る際に一応くーみんに挨拶して帰ろうと思って「ありがとうございました!」と声を掛けたら、「演技めちゃくちゃうまいですね!!!すごい良かったです!!」という、タカラジェンヌでもなかなかもらえないくーみんのお墨付きを、セリ美が頂きました!!!
なんという名誉!!!!!数多のタカラジェンヌがセリ美を羨ましく思うであろう!!!
という、なかなか面白い体験もできたので、結果大満足だったんですけどね。ちょろいもんですセリ美など。
まぁそんな感じの『寂しさにまつわる宴会』レポでした。
書きたいことが無いわけじゃないけど、更新は期待しないで待っててくださいね~~~
「好きに飲んだり食べたりしながら観てくださいね~」とくーみんは言ったけど、あんなシリアスな話で食欲湧かんわ……

ブログ放置してもう5年くらい経ったかな……と思って今日ログインしたら意外にもまだ1年経ってなくてちょっとびっくり。
今こそファンが動くべき、という衝動に駆られて、現役生に宛てるメッセージを皆さんから募集し、劇団への意見書を取りまとめ、あらゆるツテを使って関係者の皆様にお届けするという一世一代の企画を遂行して、燃え尽き症候群になったことがいちばん大きかったかな。
95周年付近の元トップさんやセリ美がミズさまの次に敬愛している元2番手さんなどに直接手渡しできたことや、宙組生の皆さんからも「受け取りました、本当にありがとうございます」と伝言が届いたこと、劇団の人からも「意見書、大変役に立っています」と言っていただけたこと、心から安堵しました。
そして満足げに微笑みながら燃えカスになっていったという流れですね。
来る日も来る日も印刷&製本&発送&支援金の確認&支援者の方々への返礼品作成&送付を繰り返しながら、自分の仕事も並行して進めていくのはなかなかの過重労働ではありましたが、それよりも使命感や「いま助けるからな!待ってろ!」という海猿感の気持ちのほうが勝っていて、精神的にはむしろランナーズハイみたいな感じでしたけどね。
でもそこから生まれた貴重なご縁もたくさんあって、人生って本当に分からないものだし、行動力次第で人生はどんどん変えられると実感した出来事でしたね。
もちろん嫌なこともあったけど。
こういうときに取る行動で人の本性って見えるんだな~と思う出来事もチラホラありました。オセローじゃないけど、人間って本当に嫉妬に翻弄されるんですねえ。
でもセリ美がハガネの精神力の持ち主であり、どこかで非難をされているらしいと聞いても「物陰から石投げることしかできない陰湿で卑怯な奴は来世ハエで決定だな」とか気軽にスルーできたことも大きかったように思います。
自殺率がトップレベルである今の日本で、このようになんとも逞しく生き抜いていけるこの体力は、地獄をサバイブしてきたバックグラウンドのおかげです。ある意味感謝ですな。
地獄といえば、母が先日「大腸がんが2か所見つかって手術予定」と人づてで私にほのめかしてきまして、「そうとでも言えば私が『お母さん!!!死なないで!!!』と泣いて助けに行くとでも思ったか?クソが!!!!!」という気持ちですいま。
散々子供をサンドバッグにして利用し尽くしてきたくせに、弱ってきたら「助けて」「大切にして」って、本当に毒親あるある過ぎて笑うわ。
でもね、先日観た映画『国宝』でも、(以下ネタバレなのでこれから観る方は読み飛ばし推奨)(矢印内を飛ばしてね)
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ケンワタナベ演じる2代目半二郎が喀血して死ぬ直前に名を呼んだのは、自分の名跡を継いでくれた喜久雄ではなくて、家を捨てた息子の名前でね。
それを聞いて喜久雄は「あなたを一身に助けた自分ではなく、父を捨てた愚息なんですね」と異常な執着心を芽生えさせていくわけです。
そして、セリ美の祖父も死の間際に名前を呼んだのは、最後まで祖父のお世話をしたセリ美母ではなく、根無し草のように生きていたセリ美叔母(母の妹)の名だったという実話がありましてね。
親って生き物は、最後まで気がかりになっていた出来損ないの子供の名を呼んで死ぬってのがセオリーなんですかねえ。
となると、セリ美母も、母大好きマザコン兄よりも、一方的に縁を切られたセリ美の名を最期まで呼んで死に絶えていくんですかね。
ざまあみろ!!!!
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まぁそんな生き様なので、大抵のことはかすり傷にもならんハガネのメンタルなのであります。
宝塚観劇もですね、息子もさっさと性転換を済ませて今や縦横無尽に活躍しておりますし、贔屓が不在のいまは月1くらいの観劇ですかねえ。
「観ておきたい」と思うのはちなつさん、ありちゃん、ずんちゃんですかね。下級生はだいぶ追いつかなくなっちゃったな~~
ずっと客席側だった自分が、いま生まれて初めてプレイヤー側という立場に挑戦していますが(エレキギター)、そっちの新規開拓に時間と予算をまわしてるところも多いですね。
仕事のほうも有難いことに「ぜひあなたに書いてほしい」というクライアントさんがずいぶん多くいらっしゃいまして、もうご新規さんはお断りしているような状況でして、このChat GPT時代に忙しくやっております。
なにより、めちゃくちゃ大手の出版社さんと仕事ができているのは大変に光栄なことです。
それでもやっぱり宝塚という文化を愛してるし、土地も愛してるし、一生見守っていくんだろうなとは思いますね。
さて、近況報告はこんなところで、『国宝』を観たからか、急にくーみんの『寂しさにまつわる宴会』のことを思い出しました。同じ、「舞台の上で生きて、死ぬ者」が主人公になっているということでね。
くーみん退団後も追いかけてるヅカファンってもうそれほど多くないように思いますが、この『寂しさに~』を観に行ったヅカファンはその中でもさらに少人数だったように思います。
なにせ「観劇」と呼ぶのもちょっと違うような、あまりにもチャレンジングな演目でした。
退団後のくーみん作品はどうも感想を述べにくいという特徴がありましてねえ。
たぶん「観たことのないもの」だからだと思うんですが。
かといって、観たことないものだからといって、「これは革命だ!!!!こんなものは見たことがない!!!」というわけでもないんですよねえ……「ん…?なんだろうコレ……」という感覚かなあ。別に不味くないけど正体不明の肉を口に放り込まれたような…
「これは一体何なんだろう、何を目指しているのだろう、何が言いたいんだろう」と只々悶々として帰路につく、みたいな感覚です毎度毎度。
体中を白塗りにした男女がくんずほぐれつ謎のタコ踊りを披露するコンテンポラリーダンスって、あるじゃないですか。あれに近いような…「あれ、一体何なんだ?何かを言いたいんだろうけど全然わからん。」みたいな。
コンテンポラリーにもごく一部、「これは名作!」と思えるものもあるんですけどね。先日の咲コンでのコンテ、ものすごく良かった。
でも基本的には「これをダンスって呼ぶのは…うーん」と思うことがほとんどです。
いや、退団後くーみん作品は「全然わからん」ってこともないんだよな……もちろん物語として成立してるし、起承転結もある。
でも、『寂しさに~』で言えば「なんでこのストーリーをぶつ切りにして、合間合間にくーみんのフリートークを挟むんだ?」とか、「なんでこれを銭湯でやるの?」とか、全然わからんのですよ。
タイトル通り、「寂しさにまつわる」んです、すべてが。
人間が何でこんなに寂しい生き物なのか、寂しさがついにどんな悪さをするようになるのかを、物語に於いても表現していくし、合間合間に挟まるくーみんのフリートークでもくーみんなりの検証を語ったりするんですね。その検証方法があまりに大胆で体張りすぎてて客席からサーーーーっという引き潮の音が聞こえるくらい皆さん引いてたんですが。
で、まぁ公演もとっくに終わったんで普通にネタバレ書きますけど、主人公の女性二人が、社会から弾き飛ばされてホームレスになって、いろいろ発狂していって、片方の女が片方の女を殺して、生き残ったほうの女は殺した女の寂しさを食ってやって大衆演劇界の実力者として生き抜いていく、というラストなわけですが。
「こんな救いようのない悲劇をなんで銭湯でやるの?」とかいろいろ疑問を挙げたらキリがないんですが、私がいちばん言いたいのは、「くーみんさあ、なんでそんなにあなた自身が寂しいの??」ってことです。
そもそもくーみんは「悲劇を書かせたら優勝」だったじゃないですか。
悲劇なのにとてつもなく美しくて、「人間って悲しいけど美しいなあ、いい物語だったなあ」ってしみじみ、ジーーーンとしながら帰路についたじゃないですか。
でも退団後くーみんの書く悲劇って救いようが無くて、人間が非常に醜く見えるんですよねえ。欲望丸出しに生きて、ゆえに自滅していく、っていう。
扱う人種も、やけにホームレスとか同和地区ばっかりだし。
私は性善説論者じゃないし、むしろ真逆だからこそ人間不信なわけですが、そんな私ですら「そんな救いようのない……じゃあもう人類滅亡したほうが……」と絶望して帰る事態になるんですわ。
くーみんは「これが人間ってもんよ!それでも逞しく生きていく私たちは、尊い!!」と思ってこういう作品を書いているのだとしたら、それは間違いだと思う。醜い生き方をしてる人は自分に原因があるし、美しい生き方をしてる人は努力をしてるから美しい。
だってさ、くーみんは間近でタカラジェンヌという妖精を何百人も見てきたわけでしょう?
彼女たちももちろん「同期を押しのけてトップスターになりたい」とか、「そのためには使えるものは全部使ってやる」とか、「実力もないくせに実家の力で推されやがって」とか「Pや演出家に媚売るな」とか、ドロドロしたものはもちろん持ってますよ。
でも、彼女たちはセリ美と違って「シングルマザーである母から虐待を受けて育ちました」とか、「家がめちゃくちゃ貧乏で生活保護受給してます」とか、「近い身内に犯罪者がいます」とか「小3から登校拒否です」とか「母親は風俗嬢です」とかじゃないわけです。
いろいろ噂はありますが、一応表向きではちゃんとした教育を受けたまともなお嬢さんたちなわけで、中には一生「家事手伝い」として遊んで生きていったって贅沢できるお嬢様もいるのに、好き好んであの厳しい道をわざわざ選んで、軍隊のような予科を過ごし、劇団に入ったらまたペーペーからやり直しで、劇団ジジイたちのいろんな思惑に振り回されて路線に乗せられたり降ろされたり、やっと会立てできたと思ったら代表さんと全然合わなくてトラブル続きだったり、太客から文句言われたり、それでも毎日「お客様のために」と汗と涙でドロドロになりながら必死にお稽古場や舞台に立ってるわけです。プライベートタイムなんかほぼ皆無で。
そしてくーみんも、彼女たちに敬意を持っていると公言してるわけです。
そんな美しい生き様をたくさん見てきたくーみんが、なぜあんなに醜い人間や世界を描きたがるのかが、分からない。
ホームレスだってそれなりに事情があってそうしているのだろうけど、自分がその気になれば何度でも、いつからでもそこから脱却できるのに、しないのは自分自身なわけで、同情の余地はない。
セリ美だってひとつ間違えばトー横キッズになっておクスリ漬けになったり犯罪者になっていた可能性は非常に高かった。
でも自分の理性でそっちに流されずに踏ん張って闘ったから、今こうしてノーストレスで物書きができて、忍と小競り合いができる幸せな日々が送れている。すべては自分次第。
ほぼ無法地帯と化している同和地区に犯罪が多いのも当然だし、そこから脱却したいと思えばどうとでもなるのに、そこで虚ろな目をする人生を選んでいるのは自分自身なわけで。
そんな彼らがどう生きてるのか、どう終わっていくのかをくーみんはやたらに描こうとしていて、「なぜなら彼らは寂しいから」と言うわけですよ。
そして「その寂しさの根源はどこにあるのか」と問うてくるんですよ。
自分以外のことは分からないのでセリ美をサンプルにするしかないけど、
「寂しいも寂しくないも、全部、ぜーーーーーーーんぶ、自分次第じゃ!!!!!」
としか言えないです、もう。
普通に考えたら、セリ美が生きてきた環境なんて「寂しい」の塊ですよ。
そのカケラはいまだにいろんなところに落ちていて、この前は「運動会って今もお昼ご飯は家族のところに行ってレジャーシート敷いて食べるの?」と質問された子供が「普通に教室で給食だよ!」と答えていたテレビを見ていて、セリ美は「……え?昔の運動会って家族が見に来てお昼ご飯は家族と一緒に食べるんだっけ……?」と驚いたりしてね。
親がセリ美の学校に運動会を見に来た経験もなければ、親が作ってくれたお弁当を一緒に食べた経験も無いもんでね。
ほぼ消し去った記憶を辿っていくと、確か仲良しの友達のお母さんが「一緒に食べよ」と言ってくれたり、たまに来た祖母がめちゃくちゃまずくて見栄えの悪いお弁当(祖母は料理ができない)を広げてたな、とか思い出しましたが。
料理がヘタでも、ちゃんと愛情があれば子供は分かります。
お弁当箱でもなく、使い古して黄ばんだタッパーだった。お金が無いわけじゃなかったんだから、料理がヘタでもせめて子供が喜ぶようなお弁当箱くらい買ったら?と今は思いますよね。
タッパー全体から「面倒くさい」が漂ってるお弁当だったなあ。
みんな可愛くてちゃんとしたお弁当なのに、祖母が作ったお弁当は汚くて恥ずかしくて、隠しながら食べた記憶がほんのり残っています。
両親がいないこの子が可哀想とか、授業参観も運動会も水泳大会も親が見に来てくれないこの子が可哀想、といった気遣いを祖父母から感じたことは一度も無かった。
セリ美は運動神経抜群だったので、台東区の陸上大会も水泳大会もポートボール大会も、全部代表に選ばれてたのに、だーーーれも見に来てはくれなかった。無関心。
その後の受験も就職も、ぜーーーーんぶ無関心。
でも、むしゃくしゃしてるときは「ちょうどいいサンドバッグあったわ」と殴る。
とか、その祖母がいつしか脳梗塞で倒れて動きも喋りも不自由になってたなあ、なんて思い出していくと、脳梗塞でぶっ倒れた時に、祖父や母は「いま店が忙しいのになに倒れてんだ!」と(セリ美の実家は文房具店)祖母をそのままにして放置、そのうち祖母が失禁を始めてしまったようでそこでようやく救急車を呼んだら「脳梗塞」とわかり、すぐに救急車を呼んでいれば障がい者にならずに済んだのに、そのエピソードトークを母はセリ美に「そんなこともあったな~」くらいのトーンで話してきたりとか。
確かに、セリ美がてんかんを発症した時もなぜか「こんな忙しい時になにをお前は病気になってんだ!!!」ってキレられたな~。それなのに自分がガンになったら「助けて~」とほのめかしてくる。
自分の怠慢で親を障がい者にしたくせに、それを反省も自戒もせずに娘に「そういえばさ~」のテンションで話して聞かせるような親なんだよな~
トー横キッズまっしぐらだったわ。危ない危ない。
そんな素敵な思い出いっぱいのセリ美が、くーみんのように「私ってなんでこんなに寂しいんだろう」「人間って寂しいから思うように生きられないんだよな」って思うならまだしも、一応京大出てるくーみんはそれなりに一般的な家庭だったろうし、劇団に入って美しく生きる妖精たちをたくさん見てきたのに、何をそんなにカオナシみたいに「サミシイ…サミシイ……」って言ってるの?!意味わからん!!!!
というのが、退団後くーみんの作品を観るたびに思うこと、かな。
「寂しいも寂しくないも、全部、ぜーーーーーーーんぶ、自分次第じゃ!!!!!」
もう、これに尽きます。
セリ美はいま、「寂しい」と思う瞬間がほぼ無い。とうの昔にそんな要らぬ感情は捨て去ったというのもあるんだろうし、寂しくないようにするためには何をすればいいか、自分が「寂しい」と感じるポイントがどこにあるのか、そう感じた時に何をすればいいのかを研究し尽くしていれば、寂しいなんて思うことはほぼ無い。
「人間、シリアスになったらおしまい。楽しんでいこうぜ!」ってのがセリ美のモットーでもあるしね。
だから、くーみんが作品を通して「サミシイ、サミシイ」と言うたびに「何を言っているんだ?!?!自分次第でどうにでもなるわ!!!!」とモヤモヤする。
それがまず最初に来る感情。
それでも、誰も見たことのない手法に体当たりする姿勢は「さすがBADDYを作った女、ロック魂やで…」とも思う。
そして、最近のくーみんの活動を見ると、なんか「自然と一体になる」みたいなヨガ的なワークショップみたいなのを開催していて宗教みを感じたり、「フランス芸術にかぶれている」と感じる部分もある。
やっぱり私は下北沢でやってるような自己満芝居は嫌いだし、「人間とは」と考えさせようとしてくる説教くさい作品も嫌い。白塗りのタコ踊りを「これぞダンスです」と言われても、私はもっと分かりやすくかっこよくて美しいものが見たい。
かといって、最近のダンスブームもあまり好みではないんですが。日本も韓国もどのグループもみんな同じで…。「キレッキレこそ正義」みたいな風潮が良くない気がするんですよね。
エンタメと芸術の境目って難しいけど、私はやっぱりエンタメが好きです。
豪華な衣装でかっこいい振り付けを揃って踊ってくれるレビューが好きだし、主人公が死ぬほどかっこいい宝塚作品が好きです。
くーみんが作っているのは…エンタメではない、かな。哲学?
それでも、視線の端で追ってしまうのがくーみんの存在の強烈さなんだよなあ。
きっと、「分かりやすくて大衆的で、女性がみんなきゃあきゃあ言うようなやつ、作ってよ」と言われれば「はいはい」とくーみんなら今でもササっと名作を作ってくれるんだろう。
ピカソが、「そういうの描いてよ」と言われれば写実的なちゃんとした絵画が描けるように。
でも「そんなの、つまんないじゃん」と唯我独尊で地の果てまでエンジンふかしてぶっ飛ばしてしまうのが、くーみんなんだろう。
ご本人曰く、全然儲けなんて出てないらしい。
なんかいろんな演劇人と一緒にシェアハウスみたいなところに住んでるらしいし(現在もなのかは不明)、セリ美と同年代でそこまでの情熱を発してるのがすごい。
もうセリ美は老後に向けてお金貯めておきたいし、快適な生活空間で自由気ままに暮らしたいし、ご飯が美味しくて安全な日本からもう出たくない。
日本とフランスを行き来して、フランスではそれなりにアジア人差別に遭って、赤字の作品ばっかり興行して、「サミシイ、サミシイ」って言い続けながらそれをガソリンにして走り続けてるそのロックな生き方は、本当にすごいと思う。
今後もくーみん作品を観続けるかはわからないけど、傾奇者のようなくーみんの生き様を見守り続けたいな、とは思います。
『寂しさに~』に関する具体的な感想・レポというよりは「くーみんってなんやねん」みたいな記事になりましたね。
出演されていた2人の女優さんは、かなりの技量でした。
くーみんも天才、演者も実力者だからこそ、「もったいない」って気持ちが出ちゃったかな、セリ美の中に。
ああそうだ、書き忘れてた。
くーみんは「客席参加型」にしたかったようで、上演前に「エキストラ募集します!どなたかやってみませんかー?」と呼びかけがあり、誰も挙手せずにシーーーン……としてたので、セリ美がなんと立候補!!!
くーみんは「おお!!」とあの沈黙の中に挙手したセリ美の勇気を褒めたたえるような反応を見せてくれまして。
そりゃセリ美だって客席でゆったり観ていたかったけど、くーみんから演技指導を受けられる機会なんてもう二度と無くない?!?!と思ったら、やるしかない!!と。
観客が数百人とかいたら嫌だけど、30人程度だったので。
まぁセリ美茶で多少度胸がついたのもあったし。
そしてステージに上がるよう言われて、舞台袖に捌けてくーみんから演技指導。
内容は、くーみん扮する大衆演劇のスターが終演後にお見送りをする場面があるから、そこでくーみんに対して「きゃああああ!ファンなんですーー!」みたいな演技をして通り過ぎてほしい、と。
…………え?ファンの役????
そんなん、40年くらいやってますけど?????
………本気、出しちゃいますよ…?
と腹は決まった。
そして、その場面がやってきた。
先にスタッフさんがお手本としてファン役をやりますので、そのあとに続いて出てください、と段取り通りに進む。
くーみんの前にきたセリ美は、「きゃあああ!ほぼ毎日来てますけど、去っていく背中が今日も一段と素敵でしたーー!!握手してもらってもいいですかああああ」と演技とは思えぬ迫真のアドリブを繰り出したセリ美。
差し出されたくーみんの手は非常に冷たかった。冷え性。
『寂しさにまつわる宴会』という作品に確実に爪痕を残したな……カテコに呼んでくれても、いいんだぜ…?客席に投げキッス、するぜ…?と異様な達成感を得て自分の席に戻りました。
残念ながらカテコには呼んでもらえなかったけど、終演して帰る際に一応くーみんに挨拶して帰ろうと思って「ありがとうございました!」と声を掛けたら、「演技めちゃくちゃうまいですね!!!すごい良かったです!!」という、タカラジェンヌでもなかなかもらえないくーみんのお墨付きを、セリ美が頂きました!!!
なんという名誉!!!!!数多のタカラジェンヌがセリ美を羨ましく思うであろう!!!
という、なかなか面白い体験もできたので、結果大満足だったんですけどね。ちょろいもんですセリ美など。
まぁそんな感じの『寂しさにまつわる宴会』レポでした。
書きたいことが無いわけじゃないけど、更新は期待しないで待っててくださいね~~~
「好きに飲んだり食べたりしながら観てくださいね~」とくーみんは言ったけど、あんなシリアスな話で食欲湧かんわ……

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